No.25 2004年6月上旬号 (6月7日発行) 写真はクリックで拡大 | |||
本 −坂の上の雲(第8巻)− 長い小説もいよいよ終巻である。 明治38年(1905年)5月27日早朝、連合艦隊附属特務艦隊の信濃丸が、 対馬海峡に向かおうとするロシアのバルチック艦隊を発見した。 連合艦隊司令長官東郷平八郎の旗艦三笠へ『敵艦隊見ゆ』の無電が打電された。 東郷が決戦場に向かうにあたり、故国の大本営ににむかって次の電報を打った。 『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』 この有名な『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』の文章は、秋山真之参謀の作である。 東郷の敵前回頭という作戦によって、バルチック艦隊の戦艦はほとんどが撃沈された。 ロシア連合艦隊旗艦スワロフに乗るロジェストウェンスキー司令長官もなすすべがなく、 壊滅的な打撃を受けて、ほとんどの幕僚とともに日本軍の捕虜となった。 5月27、28日の二日間にわたる日露戦争日本海海戦はここに終わった。 東郷が佐世保海軍病院にロジェストウェンスキーを見舞った際の情景は感動的に描かれる。 東郷は無口で知られた男であったのに、低い声で次のように言ったという。 『閣下、はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、 武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重症を負われました。 今日ここでお会い申すことについて、心からご同情つかまつります。 われら武人はもとより、祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ。 ねがわくば十二分にご療養くだされ、一日もはやく全癒くださることを祈ります。』 ロジェストウェンスキーは、 『私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます』と答えたという。 満州における秋山好古らの陸軍の状況は、海軍のような完全勝利には程遠い状況であった。 しかし、イギリスのポースマスにおいて、アメリカのルーズベルト大統領の調停による 講和条約が成立しつつあった。 この長編の小説(というよりは歴史書)について、司馬遼太郎氏はあとがきで 次のように述べておられる。感服するのみである。 『この作品は、執筆時間が四年と三ヶ月かかった。書き終えた日(昭和47年8月)の数日前に 満49歳になった。執筆期間以前の準備時間が五ヵ年ほどあったから、私の四十代はこの作品の 世界を調べたり書いたりすることで消えてしまった』 |
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小さな旅 | 編集後記とWhat's New | ||
大峯山で修行 6月6日 大峯山登拝丹波三和講に参加し、 奈良県の大峯山に登拝してきた。 大峯山は1300年前、 修験道の開祖『役行者』によって 開かれた女人禁制の1719mの山である。 41名の参加の内 新客さん(初めて登拝する者)は、 私を含めて5名だった。 新客は先達さん(指導者)についてもらって いろんな修行をしなければならない。 6月7日、無事修行を終えて、 生まれかえって帰ってきました。 写真左は、岩場登りの修行。 写真右は、千尋の谷にそびえる岩場に 上半身を突き出して、 無我の境地への修行。 詳しくは次号で紹介したい。 |
秋山好古が陸軍大将で退役した後は 自分の故郷の松山にもどり、 好古が死んだとき、その知己たちが、 『最後の武士が死んだ』と言ったという。 この小説に描かれる、 大山巌、児玉源太郎、乃木希典、 東郷平八郎、秋山真之らも 日本最後の武士であったかもしれないと 思われる。 明治維新後も米と絹のほかに 主要産業のない百姓国家が、 ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持って 戦い勝利した事に驚かされる。 今年は日露戦争開戦から丁度満100年である。 あらためて国家とは何かについて 考えさせられる。 『坂の上の雲』は司馬遼太郎氏が 10年をかけた大作である。 この小説を縦横に分析し、 ホームページを作られている方がいる。 よくまとめられていると思う。 ここをご覧ください。 大峯山の修行については、 今までに話には聞いていましたが、 初体験でした。 さすがに足がふるえました。 |
No.26 2004年6月中旬号 (6月13日発行) 写真はクリックで拡大 | |||
小さな旅 −大峯山登拝− 6月6日、朝4時に家を出る。 8時ごろ、観光バスで大峯山のふもと洞川温泉(奈良県)の旅館に到着、 10時に旅館を出発し、登山を開始する。 途中の行場で修行しながら登って、頂上の本堂には14時ごろ到着。 15時に本堂を出発し下山する。 17時半ごろ旅館に到着し、温泉にはいって一泊する。 |
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小さな農業 | 編集後記とWhat's New | ||
家庭菜園 −ホウレンソウー 5月17日、 3月28日に種をまいたホウレンソウを 種まき以来50日目の5月17日に 食べた。 このホウレンソウが 小さな農業菜園の第1号の生産物である。 (完全無農薬品である) 今年のホウレンソウは 3回ほど食べて終わった。 |
代々の紀州家殿様も、元服を迎えると 大峯山で行を行ったという。 こんな荒行が、1300年も 続いているとは驚きである。 大峯山を世界遺産に申請中であるが、 『女人禁制』がネックになっているという。 世界遺産の中に、1つや2つの 『女人禁制』場所があってもいいと 思うがどうだろうか。 今後、毎年6月に大峯山へ登ることとした。 いつまで元気で登ることができるのか。 来年以降の登山時には、 もう修行はなしである。 大峯山については、このホームページで バーチャル登山ができる。 |
No.27 2004年6月下旬号 (6月23日発行) 写真はクリックで拡大 | ||||||||
小さな旅 −花の寺満願−
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本 | 編集後記とWhat's New | |||||||
武士道
この本の原本は、 1899年(明治32年)に英文で書かれ、 欧米人に大反響を巻き起こしたという。 武士道の基本原理は、 『義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義』にあると 書かれ、それぞれについて詳しい。 『切腹』『刀』『大和魂』についても その意味するところが詳しく書かれている。 この本の訳者は解説で次のように言っている。 考えさせられる指摘である。 『明治維新によって、武士はなくなったが、 武士道は、明治、大正、昭和初期に至っても なお生き続けていた。 しかし、あの太平洋戦争の敗戦が 日本の伝統のなにもかもに大打撃を 与えて過ぎた。武士道などは、 地を払って退けられた気がする。 民主主義の道徳、それは結構である。 しかし、新渡戸氏が言うように、 それらの根底に『義』に匹敵するような ものがあるのだろうか。 日本人はこれで良いのだろうか』 |
明治の日露戦争の後、日本陸軍大将で あった秋山好古がなくなった時(1930年)、 『最後の武士が死んだ』と言われたという。 武士とは何なのか、 その答が『武士道』に書かれている。 武士中の武士、勝海舟は、 再三の暗殺にあっても、 けっして自分の剣を血ぬらせることは なかったという。 『武士』と『サムライ』は何かが 違うような気がする。 こんな違いはどうか。? 『武士』は刀を抜かない。 『サムライ』は刀を抜く。 『武士道』の著者・新渡戸稲造氏については、 5000円札の肖像画になってからも、 よく知らなかった。 新渡戸氏は、 1862年(江戸末期)に南部藩(東北盛岡)の 武士の家に生れ、幼年から少年の時代を 武士として送られた。 その後、教育者として大学の学長を勤められ、 国際連盟の事務次長を歴任された。 1933年にカナダで病没されたが、 本当の最後の武士であったかもしれない。 新渡戸氏の人物については、ここで、 『武士道』についてはここで 紹介されている。 (古い訳であるため少し難解である) |