No.47  2005年3月上旬号 (3月4日発行)     写真はクリックで拡大

8 mm 映画


今から、26〜36年前の1970年代に撮影した8mmフィルム
(シングル8)が残っている。

今ではいい大人である娘達の、子供の頃の記録や大阪万博の記録などがある。
映写機を引っ張り出してみたが、ランプが切れていて映らなかった。

インターネットで調べてみると、8mmフィルムからVHSビデオテープへの
変換サービスを行っているところがあったので、変換してもらった。

現在、参議院議長の
扇 千景氏が、かってテレビタレントであった頃、
マガジンポン! わたしにも写せます』のCMで、一世を風靡したものであった。

その後、1980年代にはカメラや映写機の製造が中止され、
ランプなどの消耗部品の購入も難しくなってきている。

今では、デジタルのビデオに取って代わられ、かっての隆盛は
見る影も無い状況であるが、世の中にはこれらのマニアも又多いみたいである。

現在手持ちの8mm機材は次の通りである。

8mm カメラ
Canon 518
5倍ズームである
8mm カメラ
Fujica AX100
8mm フィルム
左:ASA25 右:ASA200

これ1本で3分20秒分
照明ランプ
LPL 100V650W
撮影時の照明用
エディター
拡大して見ながら
フィルムを編集する
スプライサー
フィルムを切ったり
つないだり
撮影・編集済フィルム
9本のフィルムを
VHSに変換(約2時間分)
8mm映写機
ELMO GPデラックス

テープレコーダと同調映写可
40年ほど前の
CM中の
扇 千景
(他のサイトから借用)

本(半X)
小さな旅(半X)

新平家物語(第3巻)

新平家物語
(全16巻)

吉川英治著


講談社出版

第3巻では、最初の源平合戦となった
『平治の乱』が描かれる。

保元の乱に勝った後白河天皇は、
1158年(保元3年)に退位して
院政を始めたが、
その周辺を取巻く、公家や武士の間で
権力争いが激しくなっていた。

公家では、藤原信西と藤原信頼、
武士の棟梁では、平清盛と源義朝である。

ついに1159年(平治1年)12月、
信頼・義朝は、清盛が熊野参詣に
出かけた隙間をついて挙兵し、
後白河上皇と二条天皇を
内裏に幽閉し、信西の邸宅を
焼き払い自害させた。

しかし、急ぎ帰京した清盛は、
天皇・上皇を救出するとともに、
信頼らの占拠する大内裏に攻撃をかけ、
激戦の末、義朝の率いる軍勢を
破った。

義朝は逃亡の途中、家来に謀殺され、
長男義平は斬罪、
三男頼朝は伊豆へ流罪、
八男義経は鞍馬へと送られる。

この平治の乱後、
平氏一門の急激な
政界進出が始まる。


京都

3月1日
京都をぶらっとしたが、まだ京都は寒い。

二条城
国宝二の丸御殿
桃山時代の
武家書院作りで
部屋33、畳800畳
北野天満宮

菅原道真公を
祀り、九州の
大宰府天満宮
と共に、
天満宮の総本宮。

境内の2000本の
は丁度見頃だった。
編集後記とWhat's New

8mmフィルムは、1964年にアメリカの
イーストマンコダック社が『スパー8』を、
1965年に富士写真フィルムが
『シングル8』を発売した。

同じ8mm幅のフィルムでありながら
カメラ、映写機の互換性がなかった。

1981年に最後のカメラの製造が中止され、
現在は中古品のみが入手可能である。

今やDV(デジタルビデオ)が
全盛であるが、そろそろDVDに
変わろうとしている。
技術革新は急である。

しかし、
テレシネ技術によって、
8mmフィルムをVHSやDV、DVDに
変換してくれるサービスがあるのは
うれしい。




No.48  2005年3月下旬号 (3月16日発行)     写真はクリックで拡大

『何があっても大丈夫』



櫻井よしこ著

新潮社発行

最近、テレビの政治ニュース番組などで、ほとんど毎週のように、
櫻井よしこ氏の顔を見かける。

政治や外交問題について、大臣に対しても、
あなた、勉強不足よ。もっと勉強しなさい』と言ってはばからない、
その理路整然とした辛口な評論は、十分に説得力がある。

『何があっても大丈夫』は、この櫻井よしこ氏の半生を綴った回想記である。
父との関係は、必ずしも幸福ではなかったが、(詳しくは本を)
『何があっても大丈夫』は、櫻井よしこ氏を励まし続けた母上の口癖の言葉である。

彼女は1945年、ベトナムの野戦病院で生まれ、敗戦と共に、
一切の財産をなくして日本へ引揚げた後も、その半生はドラマチックである。

引揚げ後、大分県中津市の六軒長屋での生活。
13歳のとき、非行に走った兄の環境を変えるために、新潟県真人町へと引っ越し。
母の『孟母三遷』(子供を立派に育てるためには、良い環境を選ぶ)である。

県立長岡高校を卒業と同時に、単身でハワイでの大学生活と卒業。

1971年(26歳)に帰国。
米国紙『クリスチャン・サイエンス・モニター』の東京支局員となる。

1973年8月(28歳)。金大中事件が発生。この時の体験がすさましい。

彼女のボス(女)と一緒に、田中角栄の懐刀、早坂茂三秘書官と面会。
ボスの言葉を彼女が通訳した『日本政府は、金大中氏の命を保障せよ』に対し、
早坂氏は『出て行け。いますぐ。お引取り願おう』と。
この時ボスはポツリと言った。
『将来、あなたがジャーナリストになりたいと思うなら、
今日のこの体験を決して忘れてはなりません』と。

そして、
1780年(34歳)、日本テレビのニュース番組『きょうの出来事』の
ニュースキャスターになり、16年間続いた。

この前後に、オーストラリアの記者との結婚と離婚があった。

そして、現在の辛口のジャーナリスト、櫻井よしこ氏がある。

櫻井よしこ氏の半生は、小説よりもドラマチックである。
ぜひこの本を、高校生や大学生等、これから社会に出ようとする
若い人に読んでもらいたいものである。

本(半X)
ラジコン(半X)

新平家物語(第4巻)

新平家物語
(全16巻)

吉川英治著


講談社出版

平治の乱に勝利した平家一族は、
隆盛を極め、一族の総師、平清盛は、
平相国(へいしょうこく)と呼ばれた。

世の権力は、完全に公家から
武士へと変わっていった。

平家に非ずんば人にあらず』と
この世の春を謳歌する陰に、
平治の乱で破れ、謀殺された
源義朝の子供が成長しつつあった。

京都鞍馬の寺へ預けられた
牛若である。

鞍馬を脱出し、母常磐にひそかに
別れを告げた牛若は東へ向かう。

途中の熱田で、元服を行った。
自ら文字を選んで、
源九郎義経と名乗った。
16歳であった。

『あなたはたしか義朝どのの八男では
ないか。八郎義経ではないのか』
との問いに、
『叔父、鎮西八郎為朝の
お称えを憚って、八男ですがわざと、
九郎義経といたしました。
あの叔父君の潔い節操に真似びて、
せめては、弟ほどな、九郎とも
成らばやという心から』と牛若は答えた。

その東、伊豆には、
まだ見ぬ兄頼朝がいる。


R/Cプレーン二号機
初飛行失敗


二号機のモータコントロールスイッチ
(4)に、フタバのMC117を
組み込んでいた。

よく調べてみると、
MC117は、モータのON、OFFのみで
回転数のコントロールが出来ないことに
気が付いた。

これでは面白くないので、
コントロールスイッチをKYOSYOの
スカイビクトリー360P
付け替えた。

3月15日
少し風があるかなと思いながら
初飛行を行ったが、
見事
墜落してプロペラを破損した。
現在修理中である。

そう簡単には飛ばないようである。

編集後記とWhat's New

昨年の台風23号で、
水田への共同の揚水ポンプ、モータ、
配電盤が冠水し、
修理を心配していたが、
92%の補助金が出て、修理できる
見通しがついた。
ありがたい。

暖かくなれば、
半農の季節である。