No.117 2008年2月上旬号 (2月13日発行) 写真はクリックで拡大 | ||||||||||||||||||
RC ヘリ 講座 (4) ヘリの飛行原理(その1) ヘリコプターの特徴は飛行機と同様に、上下、前方への移動、回転移動ができる上に、 垂直方向への移動、左右への移動、一点での回転、さらに定点での静止ができることである。 メインローター(機体の上のプロペラ)とテールローター(機体後方のプロペラ)のみによって これらの動作ができる原理はわかりにくく、その構造もまた複雑である、 ヘリの飛行原理を理解するために、比較的構造がシンプルである飛行機の飛行原理を 理解することから始めよう。 上の左の写真は飛行機に働くさまざまな力である。 プロペラの回転によって前方への推力が発生し、風などによる抗力に打ち勝って前進する。 前進によって発生する風の流れが、主翼に当たり、翼の上向けに揚力が発生し、 揚力が重力(自重)よりも大きければ上昇し、小さければ下降する。 飛行機の飛行原理は直感的にも比較的易しく理解できる。 飛行機の舵取りはどのように行うのであろうか。 写真中は舵取り装置であり、写真右はこの舵を制御するプロポのスチック位置を表している。
第4回の講座はここまで。次回に続く。 |
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本(半X) |
編集後記とWhat's New | |||||||||||||||||
真田太平記(7) 関ヶ原
徳川家康は、石田三成が家康へ 反旗をあげた事を知って、 ついに慶長5年(1600年)9月1日、 3万3千の本軍を率いて江戸城を発し、 西上の途についた。家康59歳。 西軍の将・石田三成は、 大阪城をたって、大垣城に入っている。 関ヶ原に集結した兵力は 東軍10万4千、西軍8万2千であった。 秀忠軍の4万は、信州上田城の 真田父子の反撃にてこずり いまだ関ヶ原に到着していない。 9月15日、 霧が上がった午前8時頃に始まった 戦闘は、西軍の小早川秀秋等の東軍への 寝返り等があったりして、 11時には東軍勝利が決定的となった。 9月27日、家康は大阪城へ 入城を果たし、 そして10月1日、敗軍の将・石田三成や 小西行長、安国寺恵瓊等が 京都六条河原で処刑された。 |
今年の雪 今年の冬は暖冬で良い天気が続いていたが 1月の後半から一転して連日天気が悪い。 写真は1月25日の雪で、 積雪は25cmであった。 立春が過ぎたとはいへ、 もう少し寒い日が続きそうである。 初午 2月の最初の午(うま)の日(2月12日)を 初午とよんで、稲荷さんを祀る行事が 行われている。 写真はこの地区の清A稲荷さんの 初午の行事である。(2月10日に実施) 何百年と続いているであろう初午の行事が 今年も無事にとり行なわれた。 |
No.118 2008年2月下旬号 (2月28日発行) 写真はクリックで拡大 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
RC ヘリ 講座 (5) ヘリの飛行原理(その2) ヘリコプターの飛行原理について良くわからないところがあって、ネットで調べていたところ、 『ローターの回転でナゼ飛行できる?』というサイトを見つけた。 自分の頭を整理する目的で、上の図をつくってみた。 ヘリコプターには機体の上部で回転するメインローターと機体の後部でメインローターと 直角に回転するテールローターとがある。 メインローターが右回転すると(ローターを上から見て)、ヘリ機体はその反作用で 左回転しようとする。 テールローターはこの反作用による機体の左回転を阻止するように回転している。 テールローターのピッチ角(回転面との傾き)をさらに大きくすることによって、 機体を右回転させることができ、ピッチ角を小さくすることで、 機体を左回転させることができる。 ヘリの回転動作以外の他の動作は、メインローターのピッチ角を変えることによって 行える構造となっている。 下の表は、ヘリの動作とローターの回転面上の位置におけるローターのピッチ角との 関係である。(ローターの位置とピッチ角については、上の図を参照) 下表の0とか+とか−がローターのピッチ角を表していて、 ピッチ角0というのは、0度という意味ではなく、基準となるピッチ角で、 機種によって角度は異なり、EPキャリバー400の場合は、 プロポのスロットルスティックがスローの時に約0〜2度、 スロットルスティックが中央の時約8度、 スロットルスティックがハイの時に約10〜11度に調整するように推奨されている。 (この推奨値は通常の飛行の場合で、アクロバットフライト等の場合は異なる) ピッチ角+というのは、基準の角度(0)よりも大きい角度となることで、 ピッチ角−というのは、基準の角度(0)よりも小さい角度となる事を意味している。 コレクティブピッチ制御 ヘリが空中でほぼ静止状態となっているホバリングの状態から、 上昇や下降をさせる場合は、ローターが回転面の全ての位置においてピッチ角を +や−に増減させることによって、ローターの揚力が増減し上昇や下降をおこなう。 サイクリックピッチ制御 ヘリを前進や後進、左右への移動をさせる場合には、 ローターが1回転する間のローター位置によって、下表のようにピッチ角を変化させている。 (下表の+から−への変化は、ローターが1回転する間にサインカーブのように 滑らかに変化している) ピッチ角の変化によって、ローターには、前進や後進、左右へ移動する推力が発生する。 (上の図参照) この推力によって、機体が移動すると共に、機体が前傾や後傾、左傾、右傾し、 さらに前進や後進、左右への移動が加速されることになる。
次回は『コレクティブピッチ制御』と『サイクリックピッチ制御』のメカニズムについて 記載したいと思っている |
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本(半X) |
編集後記とWhat's New | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真田太平記(8) 紀州九度山
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は 西軍の諸将、毛利輝元や上杉景勝 島津義弘などの減俸処分を行った。 西側に組した上田の真田昌幸、幸村父子は 西側に組した真田信幸の義父 本田忠勝の懸命の助命によって 死罪を免れ、紀州九度山に 蟄居させられる。 一方の真田信之(信幸から改名)は 父・昌幸の所領が加えられて、 9万5千石の大名となった。 慶長8年(1603年) 徳川家康は天皇から、征夷大将軍に 任じられ、ついに朝命を受けて 江戸幕府を開いた。 家康62歳、秀忠25才、昌幸54歳、 信之37歳、幸村36歳、豊臣秀頼11歳、 その妻千姫(家康の孫)7才であった。 慶長10年 徳川家康は息・秀忠に将軍位を譲って 以後は『大御所』とよばれることとなるが、 実権は依然家康の手にある。 65万石の一大名となった 大阪城の豊臣秀頼と、誇り高き生母・ 淀の方や取巻きと家康の間には、 確執が続く。 |
ヘリ道 屋外用ヘリ 京商製EPキャリバー400 シュワイザー300Cの飛行練習を始めて ほぼ1ケ月が経過した。 この間に23B回 (バッテリ23回分、1回約5分の飛行)の 練習を行ってきた。 最初は地上を這いずり回っている といった状態であったが、 最近やっと1.5m程度の高さで、 3分程度連続して 浮上できるようになってきた。 もちろん、まだ ケツホバとよばれる練習で、 ヘリの頭を前に、お尻を操縦者側に 向けての操縦で、一番初歩の段階である。 ケツホバの次は、 目線の高さでの平行移動、 側面ホバリング、そして 恐怖の対面ホバリングの練習である。 これらができてから、 やっと上空での飛行が可能であり、 まだまだ上空飛行への道のりは長い。 まだしばらくは、ピンポン玉の アメンボウ(転倒防止装置)は 外せられないようである。 |