No.121 2008年4月上旬号 (4月14日発行) 写真はクリックで拡大 | |||||||||||||||||||||||||
RC ヘリ 講座 (8) 機体の組立と調整 市販のヘリコプターモデルを購入する場合、その機体の完成度合いによって、 次の3種類に分類される。
ラジコンヘリに入門した場合、5〜6秒の浮き上がりができるまでには、必ずといって、 ローターを2〜3枚、場合によっては、機構部品を壊して、分解・再組立が必要となってくる。 RTFで購入したとしても、下記のような再組立後の調整が必要である。
次回に続く。 |
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本(半X) |
編集後記とWhat's New | ||||||||||||||||||||||||
真田太平記(11) 大阪夏の陣
大阪冬の陣において、 和議休戦となった翌日から、徳川家康は 豊臣秀頼の大阪城の外濠のみならず 内濠までも埋め立てていった。 74歳となった家康は、 『わが目が黒いうちに・・・』 豊臣家の終息を見とどけたいという 願望が強い。 一方の大阪側は、 淀君をはじめとする大野治長らの 側近に取り囲まれた、秀頼の 『関東の謀略におちいり、恥を後世に 残すよりは、はなばなしく決戦すべし』 との決断となった。 元和元年(1615年)5月7日朝、 大阪夏の陣の幕がおりた。 濠を埋められ、裸城となった大阪城は、 1日とももたなかった。 最後まで大阪側についた、 真田幸村も49歳の生涯を 夏草の中で閉じた。 ついに大阪城が落城し、 豊臣秀頼(23歳)、淀君(49歳)、 大野治長らも自害、 豊臣家がここに滅亡することとなった。 |
小学校入学式 私の母校である小学校の入学式に 参列してきた。 我子の入学式も、もう30年以上前のことで あまり記憶に残っていない。 少子化と地域の過疎化で、 新1年生は、15名、全校生徒は96名 である。 かっての我々の頃に比べて、 寂しい限りであるが、かえってこの程度の 規模の方が、先生の目が行き届いて 良い教育ができるのかもしれない。 しかし、 近隣の小学校では、2名の入学者で あるという。 近い将来には、学校の統廃合の話が 出てきそうである。 ヘリ道 相変わらず、少し無理をしては、 不時着させて、部品を破損させている。 2号機のプラスチックレバーを破損させ、 部品を注文中であるが、 メーカーにも在庫が無く、 長らく待たされている。 メーカーの京商さん、早くなんとかしてよ。 |
No.122 2008年4月下旬号 (4月29日発行) 写真はクリックで拡大 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
RC ヘリ 講座 (9) プロポの設定 ヘリを飛行させるには機体の調整と共に、プロポの設定が必要である。 設定項目と設定内容は次の通り。 (プロポによっては、さらに細かい設定ができるようである)
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本(半X) |
編集後記とWhat's New | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真田太平記(12巻・最終章) 雲の峰
大阪夏の陣の翌年、 元和2年4月17日、徳川家康は 駿府城で75歳の生涯を閉じた。 二代将軍秀忠は、翌年4月に、 父・家康を下野の国・日光山の 神社(東照社)へ『東照大権現』という 神様として祀ったのである。 この年秀忠は39歳のはたらきざかり であった。 父と子、兄と弟で東と西に分かれて 戦った真田家で、生き残ったのは 東軍へみかたした真田信之であった。 真田家は、その後も明治維新まで 信州松代10万石として栄えたという。 この長い小説もいよいよ 最終章となった。 |
もうすぐ田植の季節 今年は水稲苗の配達を 5月15日頃に申込んでいるので、 そろそろ、田植の準備の季節になってきた。 山もいつのまには、青葉一色になってきた。 やっと良い天候が続くようになってきて、 周辺の田んぼでも、 トラクターや草刈機の音がするように なってきた。 なんとなく気ぜわしい季節である。 今年の稲作は昨年と同様で、 田4枚の面積44aへ、コシヒカリの 植付けである。 写真は、水を入れる前に耕転し、 草刈をしたところである。 |