はじめに

この41年間に読んだ文庫本を整理してみると、
No.1は、吉川英治の68冊、
No.2は、司馬遼太郎の55冊、
No.3は、山岡荘八の48冊、
No.4は、池上正太郎の30冊、
No.5は、山本周五郎の18冊でした。

かって私の血を騒がせたこれら古典(?)の内容は年月の間に頭からすっかり消えてしまっています。

これ等の本を、今、再び読み返してみようと思います。

新たな感動を味わうのか、その感想などをこのコラムに記録します。


2003年10月記

   1.半農半Xという生き方                    2003年10月記   

塩見直紀著
ソニーマガジンズ
発行

小さな農業で小さな暮らし(半農)をしながら、好きなことと役に立つこと(半X)を調和させて
生きることのすすめです。
著者自身が半農半Xの生活をされながらその効果を紹介されている。

すでに職業を得ている若い人が、これから半農半Xの生活に転換するには
相当の価値あるXをもっていて覚悟が必要であると思われるが、

これから定年を迎える人にとって、今後の半農半Xの生活は
まさにぴったりの生き方のように思える。

これからは、半農をしながら、早く価値あるXを見つけたいとおもっています。

   2.私本太平記                          2003年12月記

第1巻

私本太平記
(全八巻)
吉川英治著
講談社発行

本棚に吉川英治の単行本が68冊ある。

この私本太平記は昭和55年発行分であるから23年前に一度読んだ本であるが、
その内容はほとんど忘れてしまっている。

太平記の主人公、足利尊氏は、我が家に近い綾部市の生まれとのことで
親しみを感じ、再度読んでみることとした。

この本によると、足利尊氏は関東下野国足利の庄の住と書かれ、
現在の京都府綾部市での出生についてはどこにも出てこない。

第1巻は、鎌倉幕府が開かれて130年、政治が乱れ、公武の亀裂が拡大し、
乱世の徴候が顕然としてきた。
この時代の尊氏18歳から、幕府の重臣の娘登子との結婚までの話である。


第2巻

第2巻では、鎌倉北条幕府の悪政に対し、大覚寺統後醍醐天皇の叛乱から始まる。
いよいよ南北朝時代の始まりである。

南北朝を理解するためには、『帝位の両統迭立』についての理解が必要である。

『帝位の両統迭立』とは、この本によれば、一つの皇室が二派にわかれ、
帝位の争いがもつれた結果その即位の君を『かわりばんこ』に
双方から出すという約束をした時代のことをいう。
しかし、この約束は守れなかった。

著者はいう。
『もし、凡夫と凡夫の約束でも、国と国の約束でも、それを守れる人間だったなら、
人間の歴史から戦争は半分以下にも減っていたろう。
南北朝の大乱の因は、皇位継承などの重大事を、かわりばんこの約束事に
まかせてきたなどが悪因である』と。

皇室の二派、持明院統と大覚寺統のいきさつについてはこの本に詳しい。

叡山に向かわれた後醍醐天皇は、幕府の六波羅探題を突破することが
できず、笠置へ向かわれた。

ついに、この笠置から、河内の楠木正成に幕府打倒の勅命が下った。



第3巻

笠置の後醍醐天皇からの勅命により、楠木正成は重い腰を持ち上げた。

しかし、後醍醐は笠置落ちし、とらえられた。
また、五百人の楠木正成一族が立てこもる赤坂城は、幕府方二万の大軍に取り囲まれる。
ついに、笠置全滅後二十三日目に赤坂城は落ちた。

世上には、
「河内の正成は砦の火のしたに、自害して果てた」と信じられた。

そして後醍醐天皇はついに隠岐ノ島へ配流となる。
この幽閉の後醍醐に近づいたのがばさら大名・佐々木道譽である。

都京都ではこの年、元弘二年四月二十八日、幕府が立てた新帝、持明院統、光厳帝の
即位をもって、年号も正慶と改元された。

著者は書く。
「隠岐の後醍醐も『退位する』とは決して仰せ出ないことである。
宮方の者は今度の改元を無視していぜん元の”元弘二年”を通していった。
茲に、一土の民に二つの年号があるという畸形な世紀をこの国は以後六十年も
見る端緒となった」

そのころ、天王寺で楠木正成が再び立った。



第4巻

隠岐の島へ配流となった後醍醐天皇は、宮方の海賊、阿波の岩松党の手引きで、
隠岐の島を脱出された。

後醍醐天皇が大山の船上山に着座のころ、不死鳥の如き楠木正成は、一千の兵で、
天嶮の千早城に立て篭もり、五万の幕府軍を金縛りに悩ましていた。

そのころ、幕府の第四次召集令が発せられ、鎌倉に在住の足利高氏にも
とうとう出陣命令が発せられた。

高氏はこの命令を拒むすべもなく、妻、子供二人を幕府執権北条高時に
人質として差し出して出陣した。

高氏の祖父家時公が残した謎の置文(天下取り)を胸に秘め京へ登る高氏は、途中の矢作で、
一族四千騎に対し、彼の大望の本心をうちあけた。


第5巻

京に上った足利高氏は、丹波篠村の大江山でついに、幕府打倒の旗上げをした。

幕府の要所六波羅が落ち、二十歳の光厳帝をはじめ、御父の後伏見法皇らも落ちていかれた。

尊氏の打ち上げたのろしは、まさに万雷の轟となった。

六波羅が落ちたのに同期して、楠木正成が篭城する千早城では、
篭城百七十日で、幕府軍の撤退がはじまった。

幕府の執権、北条高時の住む鎌倉においても、尊氏のライバル、新田義貞が兵をあげた。

ここに、石垣の崩れるごとく、鎌倉幕府は百五十年の幕を閉じた。


第6巻

150年続いたの鎌倉幕府が亡んだあとは、後醍醐天皇の建武の親政が始まった。

鎌倉の幕府を攻めた新田義貞は恩賞にあやかろうと上京し、京の幕府(六波羅)を落とした
足利高氏は、恩賞として後醍醐帝の名前(尊治)の一字をもらって尊氏となった。

しかし、戦後の平穏は長くは続かないのが世の常である。

ここに、後醍醐天皇、大塔の宮(皇子)、新田義貞、楠木正成、足利尊氏が
複雑に絡んだ戦乱が再び始まった。

大塔の宮を倒した足利尊氏も、ついに京を追われる身となって兵庫の港から、筑紫(九州)へ
落ちていく事となる。



第7巻

筑紫(北九州)へ落ちた足利尊氏は、ここで勢力を養うと共に、かってから一目をおく
河内の宮方、楠木正成に礼儀を尽くして同盟を要請するが、敢然たる言で拒否された。

『正成は武人です。また、笠置へ伺候してこのかたは、身も心も今上の御一方に
誓いまいらせた一朝臣、左様、江口の遊女のように、世を浮き舟と渡るすべは
よう存じておらぬ』 と・・・・。

尊氏は瀬戸内の海上から、弟直義は山陽道を陸上から、数万の大軍の東上が始まった。

すでに死を覚悟した正成は、後醍醐天皇へ最後の別れを述べて、
一千の兵を引いて、新田義貞に合流すべく西へ発った。

尊氏の乗る数千艘の船団は、いよいよ、兵庫生田から御影の浜へ、
そして和田の岬から上陸を開始した。


第8巻(終巻)

『私本太平記第8巻終巻』は、神戸の和田の岬に上陸した足利尊氏を迎える、
楠木正成との湊川の戦いから始まる。
さすがの楠木正成も足利軍に制圧され、ついに、かやぶき屋根の一宇の堂の中で
弟正季以下一族51名の自決となった。

次ぎの様な最後の言葉を残して。

『正季、また一同も、天地へ祈れっ。みかどのおわす都の空へもそれを祈ろう。
ひとつ同腹、あらそいなき世を造らせ給え。
ふたたびこの国の山野にあえなき無数の白骨を哭かしめ給うことなかれと』

吉野の南朝後醍醐を倒し、京都の北朝を奉る室町幕府をつくった足利尊氏は、
その後も、南朝側の抵抗に加え弟直義の反逆、子直冬の反乱によって平穏な世は訪れない。

足利尊氏は、第二代将軍義詮の見守る中に54歳の生涯を閉じた。

その後も南北朝とよばれる畸形な国家は続いていく。

  3.坂の上の雲                           2004年3月記

第1巻

坂の上の雲
(全8巻)
司馬遼太郎著
文春文庫発行

1904年(明治37年)2月8日、日露戦争が始まった。今から丁度100年前である。

明治の日清、日露戦争についての知識は私の頭の中ではほとんど空白である。

日露戦争を描いたこの小説も、20年前に買っって読んだ本であるが、
ほとんどストーリの記憶はなくなっている。再度この機会に読み直す事とした。

司馬遼太郎氏は、この二百年の日本において、『歴史を作る歴史』を書く三人の人物で
あるという。
他の二人は、『日本外史』の頼山陽と『近世日本国民史』の徳富蘇峰氏。

第1巻は、明治維新直後の秋山好古、秋山真之兄弟と正岡子規の青春時代から始まる。


第2巻

明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に
追いつこうとしている。

四国松山で生まれた秋山好古は、東京の陸軍士官学校を卒業し、
騎兵隊の道を歩みかける。

秋山真之の友人、正岡子規は
東京大学予備門を経て、新聞『日本』へ入社し、俳句の道へ歩みかけた。
しかしすでに、肺結核に冒され、喀血する事があった。

好古の弟、秋山真之もまた、中学を中退して東京大学予備門、海軍兵学校をへて、
海軍の道を歩みかける。

明治27年8月1日、清国に対し宣戦が布告された。日清戦争の始まりである。
当時の列強はたがいに国家的利己心のみで動いている。

日清戦争の原因は、この当時の朝鮮を巡る日清間の植民地獲得戦争であったといえよう。

好古は騎兵隊として、遼東半島へ上陸し、真之も連合艦隊に乗り込んでいる。

そして、明治28年2月13日、清国北洋艦隊の降伏となった。この頃子規も従軍している。


第3巻

病床の床に居ながら俳句界の改革を成し遂げた正岡子規は、明治35年9月
日露戦争の足音を聞きつつ35年の生涯をとじた。

満州と朝鮮をめぐるロシアとの外交交渉は決裂し、ついに明治37年2月10日
宣戦布告を行った。

司馬遼太郎はいう。
『しいてこの戦争の戦争責任を決めるとすれば、ロシアが八分、日本が二部である。
そのロシアの八分のうちほとんどはニコライ二世がおわなければならない』と。

いよいよ連合艦隊の旅順艦隊への攻撃と陸軍の満州遼東半島への上陸が
始まった。

司馬遼太郎によって、日露戦争を通じての明治の英雄、天才達の人間像が
巧みに描かれていく。

枢密院議長:伊藤博文
首相:桂太郎
外務大臣:小村寿太郎
海軍大臣:山本権兵衛
満州軍参謀本部総長:大山巌
満州軍参謀本部次長:児玉源太郎
騎兵旅団長:秋山好古
連合艦隊指令長官:東郷平八郎
第一艦隊参謀:秋山真之
ロシア皇帝:ニコライ二世
ロシア出征軍司令官:クロパトキン



第4巻

秋山真之少佐が参謀をつとめる連合艦隊は、ロシアの艦隊を狙って海から旅順港を包囲するが、
敵艦隊は陸上の強力な砲台群に守られ、旅順港に潜み、出てこようとしない。

秋山好古少将の属する第二軍は、遼東半島に上陸した直後から苦戦の連続であった。
秋山支隊(騎兵旅団以外に歩兵、砲兵、工兵を含んだ旅団になっている)の働きと
第一軍黒木軍の猛攻によって、遼陽会戦に辛勝する。

地上から旅順を攻める陸軍第三軍(乃木司令官、伊地知参謀長)は、
連合艦隊の悲壮な願い(203高地への攻撃)を無視し、頑固に正面突破に挑み、苦戦を続ける。

その頃、ロシア本国からはバルチック艦隊が日本海域を目指してバルト海を出港していた。
ヨーロッパから東洋に向かって一万八千海里(33,000km)という
気の遠くなるような航海が始まった。



第5巻

乃木司令官の第3軍は、旅順の203高地を児玉大将の応援でもって、
12月6日、遂に堕とした。

このとき乃木司令官が作った詩が爾霊山(203、にれいさん)である。

爾霊山嶮豈難攀
(爾霊山は嶮なれども豈攀じ難からんや)

男子功名期克艱
(男子の功名、艱に克つを期す)

鉄血覆山山形改
(鉄血山を覆うて、山形改まる)

万人斉仰爾霊山
(万人斉しく仰ぐ、爾霊山)

司馬遼太郎は書く。
『爾霊山(にれいさん)というこの言葉のかがやきはどうであろう。
この言葉を選び出した乃木の詩才はもはや神韻を帯びている。
203mの標高の山(203高地)を、爾霊山(にれいさん、なんじの霊の山)と
詠んでいる・・・・』と。

10月15日にバルト海を出港したロシア海軍バルチック艦隊は、
アフリカ大陸の南端喜望峰を回り、マダガスカル島の東を北上していた。

旅順港のロシア艦隊が203高地からの砲撃によって全滅した事や、ロシア旅順軍が
降伏したことも知らずに・・・。



第6巻

日本軍は、旅順を陥落させたが、大山巌や児玉源太郎の野戦軍は、
凍てつく満州の地で冬篭ごもりしている。

その日本軍に対し、ロシア軍の攻撃が始まった。

左翼を守備する秋山好古支隊にロシア軍の集中攻撃が降りかかった。
黒溝台会戦である。

日本軍が苦戦する中、ロシア軍総司令官クロパトキンは第二軍司令官
グリッペンベルグ大将へ突然、『退却せよ』との命令を発した。
1月29日、黒溝台会戦は終わりを告げた。

この不可解な命令は、専制国家ロシアの官僚化した軍内部の権力闘争の
結果であるという。

旅順を陥した乃木軍は、大山巌や児玉源太郎が戦っている満州平野の決戦に向けて
北進を開始する(1月24日)。

ロシア国内の事情によって、マダガスカル島の漁港に座りこんでいた
バルチック艦隊は、3月16日、いよいよ東へ向かって出港した。



第7巻

黒溝台会戦で辛勝した日本軍はさらに北上し、奉天会戦でもロシア軍を
退却させた。(3月19日)
兵力、火力ともに優位なロシア軍の敗因は、『一に、作戦によって敗れたのであり、
総司令官クロパトキンの個性と能力に起因している・・・』と、
司馬遼太郎は書いている。

一年前の10月にバルト海を出港したバルチック艦隊は、アフリカ大陸の南端を
経由し、インド洋を横断し、シンガポールをかすめて、日本海への入口対馬海峡へと
向かっている。

いよいよ、連合艦隊司令長官東郷平八郎とバルチック艦隊司令長官
ロジェストウェンスキーとの日本海海戦が始まろうとしている。



第8巻(終刊)


長い小説もいよいよ終巻である。

明治38年(1905年)5月27日早朝、連合艦隊附属特務艦隊の信濃丸が、
対馬海峡に向かおうとするロシアのバルチック艦隊を発見した。
連合艦隊司令長官東郷平八郎の旗艦三笠へ『敵艦隊見ゆ』の無電が打電された。
東郷が決戦場に向かうにあたり、故国の大本営ににむかって次の電報を打った。

『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』
この有名な『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』の文章は、秋山真之参謀の作である。

東郷の敵前回頭という作戦によって、バルチック艦隊の戦艦はほとんどが撃沈された。
ロシア連合艦隊旗艦スワロフに乗るロジェストウェンスキー司令長官もなすすべがなく、
壊滅的な打撃を受けて、ほとんどの幕僚とともに日本軍の捕虜となった。
5月27、28日の二日間にわたる日露戦争日本海海戦はここに終わった。

東郷が佐世保海軍病院にロジェストウェンスキーを見舞った際の情景は感動的に描かれる。
東郷は無口で知られた男であったのに、低い声で次のように言ったという。

閣下、はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、
武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重症を負われました。
今日ここでお会い申すことについて、心からご同情つかまつります。
われら武人はもとより、祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ。
ねがわくば十二分にご療養くだされ、一日もはやく全癒くださることを祈ります。


ロジェストウェンスキーは、
『私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます』と答えたという。

満州における秋山好古らの陸軍の状況は、海軍のような完全勝利には程遠い状況であった。
しかし、イギリスのポースマスにおいて、アメリカのルーズベルト大統領の調停による
講和条約が成立しつつあった。



この長編の小説(というよりは歴史書)について、司馬遼太郎氏はあとがきで
次のように述べておられる。感服するのみである。

『この作品は、執筆時間が四年と三ヶ月かかった。書き終えた日(昭和47年8月)の数日前に
満49歳になった。執筆期間以前の準備時間が五ヵ年ほどあったから、私の四十代はこの作品の
世界を調べたり書いたりすることで消えてしまった』

   4.武士道                             2004年6月記  

武士道
新渡戸稲造著
奈良本辰也訳
三笠書房

この本の原本は、1899年(明治32年)に英文で書かれ、欧米人に大反響を巻き起こしたという。

武士道の基本原理は、
『義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義』にあると書かれ、それぞれについて詳しい。

『切腹』『刀』『大和魂』についてもその意味するところが詳しく書かれている。

この本の訳者は解説で次のように言っている。
考えさせられる指摘である。

『明治維新によって、武士はなくなったが、武士道は、明治、大正、昭和初期に至っても
なお生き続けていた。
しかし、あの太平洋戦争の敗戦が日本の伝統のなにもかもに大打撃を与えて過ぎた。
武士道などは、地を払って退けられた気がする。
民主主義の道徳、それは結構である。
しかし、新渡戸氏が言うように、それらの根底に『義』に匹敵するような
ものがあるのだろうか。日本人はこれで良いのだろうか』