5.何があっても大丈夫                        2005年3月記   

櫻井よしこ著

新潮社発行

最近、テレビの政治ニュース番組などで、ほとんど毎週のように、
櫻井よしこ氏の顔を見かける。

政治や外交問題について、大臣に対しても、
『あなた、勉強不足よ。もっと勉強しなさい』と言ってはばからない、
その理路整然とした辛口な評論は、十分に説得力がある。

『何があっても大丈夫』は、この櫻井よしこ氏の半生を綴った回想記である。
父との関係は、必ずしも幸福ではなかったが、(詳しくは本を)
『何があっても大丈夫』は、櫻井よしこ氏を励まし続けた母上の口癖の言葉である。

彼女は1945年、ベトナムの野戦病院で生まれ、敗戦と共に、
一切の財産をなくして日本へ引揚げた後も、その半生はドラマチックである。

引揚げ後、大分県中津市の六軒長屋での生活。
13歳のとき、非行に走った兄の環境を変えるために、新潟県真人町へと引っ越し。
母の『孟母三遷』(子供を立派に育てるためには、良い環境を選ぶ)である。

県立長岡高校を卒業と同時に、単身でハワイでの大学生活と卒業。

1971年(26歳)に帰国。
米国紙『クリスチャン・サイエンス・モニター』の東京支局員となる。

1973年8月(28歳)。金大中事件が発生。この時の体験がすさましい。

彼女のボス(女)と一緒に、田中角栄の懐刀、早坂茂三秘書官と面会。
ボスの言葉を彼女が通訳した『日本政府は、金大中氏の命を保障せよ』に対し、
早坂氏は『出て行け。いますぐ。お引取り願おう』と。
この時ボスはポツリと言った。
『将来、あなたがジャーナリストになりたいと思うなら、
今日のこの体験を決して忘れてはなりません』と。

そして、
1780年(34歳)、日本テレビのニュース番組『きょうの出来事』の
ニュースキャスターになり、16年間続いた。

この前後に、オーストラリアの記者との結婚と離婚があった。

そして、現在の辛口のジャーナリスト、櫻井よしこ氏がある。

櫻井よしこ氏の半生は、小説よりもドラマチックである。
ぜひこの本を、高校生や大学生等、これから社会に出ようとする
若い人に読んでもらいたいものである。


   6.この国をなぜ愛せないのか                   2006年7月記

櫻井よしこ著

ダイヤモンド社
発行

権力者へ痛烈な批判を加える櫻井よしこ氏の最新時論集である。

日頃の辛口の言論からは想像できないような、和服のしとやか姿の
写真とタイトルが目について買ったものである。

この本は、
戦後の偏狭した教育になれきってしまって、自分自身の国、日本に自信を失い、
国を愛すことができなくなった、日本国民に対して渇を与えている。

特に昨今の、北朝鮮、中国、韓国、ロシア各国の非常識な態度と歴史認識に対する
日本国民の弱腰を批判し、『自国の歴史と文明に誇りを持て』と訴えている。

いずれにも共感できることである。

  7.気高く、強く、美しくあれ                        2006年10月記

櫻井よしこ著


(株)小学館
発行

櫻井よしこ氏はこの本で、この日本の戦後の世情に対して、『世界に誇る歴史・文明をわすれたまま、
いつまで、どこまで、漂流するつもりですか?』と疑問を発し、
『日本の復活は憲法改正から始まる』と主張されている。

現行の憲法や教育のどこに欠陥がありなぜそのようになったかなどが
良く分かるように書かれている。

特に憲法の『前文』『天皇』『第九条』については櫻井よしこ氏の改正試案が掲載されている。


   8.三国志                                2004年7月記  

第一巻


三国志(一巻)

吉川英治著

講談社


1982年(昭和57年)に一度読んだこの本を、もう一度読み返すこととした。

この本は、
日本では、ヒミコが邪馬台国を統治する頃(2〜3世紀)の、中国大陸を舞台とする
治乱興亡のドラマである。(中国の歴史に取材しているが、正史ではない)

原本の『通俗三国志』『三国支演義』などを、吉川流に書き改められたものである。

吉川氏が序文で次の様に書いておられる。
『三国志には詩がある。単に厖大な治乱興亡を記述した戦記軍談の類でない所に、
東洋人の血を大きくうつ一種の諧調と音楽と色彩がある』

中国大陸の治乱興亡に活躍する世の英雄、豪傑どもの活躍は、面白い。

第1巻は、黄河のほとりで、劉備玄徳と関羽、張飛との出会いから始まる


第二巻

三国志に登場する人物は、何千何万にのぼるといわれる。

まずこの本の前半の主人公、劉備(りゅうび)を紹介しよう。

姓は劉、名は備、字(あざな)は玄徳(げんとく)。
前漢の第六代景帝の子、中山靖王劉勝の子孫である。

今は、母とともに、むしろやすだれをつくって売り歩く行商をしている。
行商の途中、黄河の畔にたたずむ劉備青年に対し、吉川英治は次のように記述している。

『年の頃は二十四、五。
腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見ずぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、
とりわけ聡明そうな眸や、豊かなほうをしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、
総じて賎しげな容子はなかった』

この劉備玄徳が、幾多の苦難の末に、皇帝の座に着くのである


第三巻

三国志に登場する人物で、張飛(ちょうひ)を紹介しよう。

姓は張、名は飛、字は翼徳。
劉備との最初の出会いは、劉備が賊に囲まれ、張飛が助けた時である。
この時の様子は、次のように描かれている。

『豹頭環眼、雷のような声で、くわっと睨めつけると、賊の小方らは足もすくんでしまった。
腰の剣も抜かず、寄り付く者をとっては投げた。
投げられた者は皆、脳骨をくだき、眼窩は飛び出し、またたくうちに碧血の大地、惨として、
二度と起き上がれる者はなかった』

劉備の故郷の桃園で、関羽とともに、劉備を主君ととして、義盟を結んだ。

性格は直情径行、大酒飲みで、酒の上での失敗も多い。
しかし、憎めない人物として描かれる。


第四巻

三国志に登場する人物で、関羽(かんう)を紹介しよう。

姓は関、名は羽、字は雲長。

劉備との最初の出会いの様子は、次のように描かれている。

「彼方から一頭の逞しい栗毛を飛ばして、『待てっ、待てえ』と呼ばわりながら駆けてくる者があった。
胸まである黒髭を春風になぶらせ、腰に偃月刀の佩環を戞々とひびかせながら、手には
緋総のついた鯨鞭をもった偉丈夫が、その鞭をあげつつ近づいてくるのであった」

その見事な髭(袋につつんでいたという)から、美髭公と呼ばれていた。

劉備の故郷の桃園で、張飛とともに、劉備を主君ととして、義盟を結ぶのであった。



第五巻

三国志に登場する人物で、第二の主人公、諸葛亮を紹介しよう。

姓は諸葛(しょかつ)、名は亮(りょう)、字は孔明(こうめい)。
容貌は身の丈八尺(184cm)、顔は白玉の如く、頭に青い頭巾をかぶり、
飄々として神仙の観があるという。

劉備は孔明を登用しようと草庵を訪れたが逢えない。
劉備は関羽、張飛と伴って、三度目の訪問でようやく対面し、三顧の礼をもって、
軍師として迎える。

劉備との最初の出会いの様子は、次のように描かれている。

『玄徳はまず彼(孔明)の語韻の清清しさに気づいた。低からず、高からず、強からず、弱からず、
一語一語に何か香気のあるような響きがある。余韻がある。

たとえていえば、眉に江山の秀をあつめ、胸に天地の機を蔵し、ものを言えば、
風ゆらぎ、袖を払えば、薫々、花のうごくか、嫋々竹そよぐか、と疑われるばかりだった』



第六巻

劉備がまだ青年の頃、旅の途中で、もっていた剣と交換に母へのお土産のお茶を買って帰ったとき、
母が劉備を叱った名場面を文中から引用させてもらおう。

『お前が、わしを歓ばせるつもりで、はるばる苦労してもっておいでた茶を、
河へ捨ててしもうた母の心がわかりますか』
『私が怒っているのは、お前の心根がいつのまにやら萎えしぼんで、
桜桑村の水のみ百姓になりきってしもうたかと、それが口惜しいのです。残念でならないのです』

母は、子を叱るために励ましているわれとわが声にないてしまって、袍の袖を、老いの眼に当てた。

『阿備。その剣を人出に渡して、そなたは、生涯、むしろを織っている気か。
剣よりも茶を大事にお思いか。・・・そんな性根の子が求めてきた
茶などを喜んで飲む母とお思いか。・・・わたしは腹が立つ。わたしはそれが悲しい。』

このように、母が子を叱る名場面がまだまだ続く。


第七巻

蜀帝劉備玄徳もついに病に倒れ、まさに死なんとする際の、丞相孔明との
会話を本文から引用させてもらう。

『玄徳はいまを以って世を去るであろう。わが為すことは尽きた。
ただ丞相の誠忠を信じて、大事の一言を託しおけば、もう何らの気がかりもない』

『・・・一言の大事と仰せ遊ばすのは』

『丞相よ。人まさに死なんとするやその言よしという。朕の言葉に、いたずらに
謙譲であってはならぬぞ。・・・君の才は曹丕(魏王)に十倍する。
また孫権(呉王)ごときは比肩もできない。・・・故によく蜀を安じ、わが基業をいよいよ
不壊となすであろう。
ただ太子劉禅は、まだ幼年なので、将来はわからない。もし劉禅がよく帝たる
天質をそなえているものならば、御身が補佐してくれれば誠に歓ばしい。
しかし、彼不才にして、帝王の器でない時は、丞相、君みずから蜀の帝となって、万民を治めよ・・・』

元徳はさらに幼少の王子劉永と劉利の二人を側近くまねいて、

『父のない後は、お前達兄弟は、孔明を父として仕えよ。もし父の言に反くときは不孝の子であるぞ。よいか・・・』
と、諭して、しばし人の親として名残惜しげの眼差しをこらしていたが、再び孔明に向かって、

『丞相、そこに座し給え。朕の子らをして、父たる人へ、誓拝をさせるであろう』
といった。
二人の王子は、孔明のまえに並んで、反かざることを誓い、また再拝の礼をした。

『ああこれで安心した』と玄徳はふかい呼吸をして、・・・・・・・・・・・・・・・。



第八巻、(終巻)

長編の三国志も第八巻で終巻である。

第二の主人公諸葛孔明もついに戦場で病に倒れた。
まさに死なんとする際の、孔明の言葉を本文から引用させてもらう。

『後主劉禅の君も、はやご成人にはなられたが、遺憾ながら先帝(劉備玄徳)のごとき
ご苦難を知っていられない。

故に世をみそなわす事浅く、民の心を汲むにも、うとくおわすのはぜひもない。
故に、補佐の任たる方々が心を傾けて、君の徳を高うし、社稷を守り固め、以って先帝の
御遺徳を常に鑑として政治せられておれば問題ないと思う。

才気辣腕の臣をにわかに用いて、軽率に旧きを破り、新奇の政を布くは危うい因を作ろう。
(・・・・・・以下略)』

以上の事々を、費偉(本当は衣へん)に遺言し終わってから孔明の面にはどこやら肩の荷がとれた
ような清々しさがあらわれていた。