9.新水滸伝                         2004年10月記   

第一巻


新・水滸伝(一巻)

吉川英治著

講談社


今、吉川文学に凝っている。前の三国志に続いて、今旬からは水滸伝である。

時は、今から900年前の、中国は宋朝の時代である。
石窟の中に閉じ込められていた百八ツの魔星が地上に踊り出て、
その一星一星が人間と化して梁山泊をつくり、天下を揺さぶる。
腐敗した世にはとけこめない、奇骨異風さまざまな好漢(おとこ)どもが、
権力に立ち向かう様の描写は、とにもかくにも面白い。

下は第一巻を構成するドラマの章のタイトルである。
此れを見れば、なんとなく、この小説の雰囲気がわかるのではないかと思う。

序曲、百八の星、人間界に宿命すること。
鞠使の幸運は九天に昇り、風流皇帝の徽宗に会うこと。
教頭の王進、追捕をのがれ、母と千里の旅に落ち行く事。
緑林の徒の涙を見て、史進、彼らを再び野へ放つこと。
史進、家郷をすてて渭水に奔り、魯提轄と街に逢うこと。
あしたに唄い女翠蓮を送って、晩霞に魯憲兵も逐電すること。
蘭花の瞼は恩人に合って涙し、五台山の剃刀は魯を坊主とすること。
百花の刺青は、紅の肌に燃え、魯和尚の大酔に一山もゆるぐ事。
花嫁の臍に毛のある桃花の里を立ち、枯林瓦缶寺に九紋龍。
菜園番は愛す、同類の虫ケラを。柳蔭の酒延は呼ぶ禁軍の通り客。
鴛鴦の巣は風騒にやぶられ、濁世の波にも仏心の良吏はある事。
世路は似たり、人生の起伏と。流刑の道にも侠大尽の門もある事。
氷雪の苦役も九死に一生を得、獄関一路、梁山泊へ通じること。
無法者のとりで梁山泊の事。ならびに吹毛剣を巷に売る浪人のこと。
青面獣の楊志、知己にこたえて神技の武を現すこと。
風来の一怪児、東渓村に宿命星の宿業を齎すこと。
寺子屋先生『本日休学』の壁書をして去る事。
呉用先生の智網、金鱗の鯉を漁って元の村へ帰ること。
六星、壇に誓う門外に、また訪れる一星のこと。
仮装の隊商十一梱、青面獣を頭として、北京を出立する事。
七人の棗商人、黄泥岡の一林に何やら笑いさざめく事。
『生辰綱の智恵取り』のこと。並びに、楊志、死の谷を覗く事。
二侠、二龍山下に出会い、その後の花和尚魯智深がこと。
目明し陣、五里夢中のこと。次いで、刑事頭何濤の妻と弟の事。
耳の飾りは義と仁の珠。宋江、友の危機に馬を東渓村へとばす事。


第二巻

水滸伝はとにかく面白い。
その面白さを、私のつたない文章力では紹介できないのが残念である。
しいていえば、昔見た映画、南総里見八犬伝のような面白さである。

例によって、第二巻を構成するドラマの章のタイトルを紹介しよう。
タイトルにもあるように、やわらかい話も適度に含まれていて楽しい。

秋を歌う湖島の河童に、百舟ことごとく火計に陥つこと。
林冲、王倫を面罵して午餐会に刺し殺すこと。
人の仏心は二婆の慾をよろこばせ、横丁の妾宅は柳に花を咲かせる事。
女には男扱いされぬ君子も、山野の侠児には恋い慕われる事。
悶々と並ぶ二つ枕に、蘭燈の夢は闘って解けやらぬ事。

ふと我に返る生姜湯の灯も、せつな我を失う寝刃の闇のこと。
地下室の窮鳥に、再生の銅鈴が友情を告げて鳴ること。
宋江、小旋風の門を叩くこと。ならびに瘧病みの男と会うこと。
景陽岡の虎、武松を英雄の輿に祭り上げること。
似ない弟に、また不似合いな兄と嫂の事。ならびに武松、宿替えすること。

隣りで売る和合湯の魂胆に、簾もうごくけしの花の性の事。
色事五ツ種の仕立て方のこと。金蓮、良人の目を縫うこと。
梨売りの兵隊の子、大人の秘戯を往来に撒き散らすこと。
姦夫の足業は武大を悶絶させ、妖婦は砒霜の毒を秘めてそら泣きになくこと。
死者に口無く、官に正道なく、非恨の武松は訴える途なき事。

武松、亡兄の恨みを祭って、西門慶の店に男を訪う事。
獅子橋畔に好色男は身の果てを砕き、強欲の婆は地獄行きの木馬にのること。
牢城の管営父子、武松を獄の賓客としてあがめる事。
蒋門神を四ツ這にさせて、武松、大杯の名月を飲みほす事。
城鼓の乱打は枯葉を巻き、武行者は七尺の身を天蓋へ托し行くこと。

緑林の徒も真人は喰わぬ事。ならびに、危かった女轎のこと。
花灯籠に魔女の眼はかがやき、又も君子宋江に女難あること。
待ち伏せる眼と眼と眼の事。次いで死林にかかる檻車のこと。
秦明の仙人掌棒も用をなさぬ事。ならびに町々三無用の事。
弓の花栄、雁を射て、梁山泊に名を取ること。

非心、長江の刑旅につけば、鬼の端公も気のいい忠僕に変わること。
死は醒めてこの世の街に、大道芸人を見て、銭をめぐむ事。
葦は葦の仲間を呼び、揚子江の『三覇』一荘に会すること。
根は、みな『やくざ』も仏心の子か。黒旋風の李逵お目見えのこと。


第三巻

いよいよ、梁山泊には一騎当千の百八人の豪傑どもが、続々と集まりかけてくる。
例によって、第三巻を構成するドラマの章のタイトルを紹介しよう。
このドラマの雰囲気を感じてほしい。

雑魚と怪魚の騒動の事。また開く琵琶亭の美酒のこと。
壁は宋江の筆禍を呼び、飛馬は『神行法』の宙を行くこと。
軍師呉用にも千慮の一矢。探し出す偽筆の名人と印刻師のこと。
一党、江州刑場に大活躍のこと。次いで、白龍廟に仮の勢揃いのこと。
大江の流れは奸人の血祭りを送り、梁山泊は生還の人にわき返ること。
玄女廟の天上一夢に、宋江、下界の使命を宿星の身に悟ること。

李逵も人の子、百丈村のおふくろを思い出すこと。
妖気、草簪の女のこと。怪風、盲母の姿を呑み去ること。
虎退治の男、トラになること。ならびに官馬八頭が紛失する事。
首斬り囃子、街を練る事。並びに、七夕生まれの美女、巧雲のこと。
美僧は糸屋の若旦那上がり。法事は色界曼荼羅のこと。
秘戯の壁絵もなお足らず、色坊主が百夜通いの事。

友情一片の真言も、紅涙一怨の閨語には勝らずして仇なる事。
薊州流行歌のこと。次いで淫婦の白裸、翠屏山を紅葉にすること。
祝氏の三傑『時報ノ鶏』を蚤に食われて大いに怒ること。
窮鳥、梁山泊に入って、果然、ついに泊軍の動きとなる事。
不落の城には振るいとばされ、迷路の間では魂魄燈のなぶりに会うこと。

二刀の女将軍、戦風を薫らして、猥漢の矮虎を生け捕ること。
小張飛の名に柳は撓められ、花の戦士も観念の目をつむる事。
牢番役の鉄叫子の楽和、おばさん飲屋を訪ねてゆく事。
登州大牢破りにつづき。一まき山東落ちの事。
宋江、愁眉をひらき。病尉遅の一味、祝氏の内臓に入りこむ事。

百年の悪財、一日に窮民を賑わし、梁山泊軍、引揚げの事。
宋江、約を守って花嫁花婿を見立て。『別芸題』に女優白秀英が登場のこと。
木戸の外でも猫の干物と女狐とが掴み合いの一ト幕の事。
蓮咲く池は子を呑んで、金枝の門にお傅役も迷ぐれこむこと。
狡獣は人の名園を窺い。山軍は泊を出て懲らしめを狙うこと。


第四巻(終巻)

新・水滸伝もいよいよ終巻である。
梁山泊には百八の魔星がここに揃い、中央の官軍との戦いが始まろうとするところで、
この小説は終わっている。
このとき、吉川英治氏は起居も不自由なほどに衰弱されていたという。
吉川英治氏の作家生活最後となったこの小説の、
最後の本文三行を引用させていただく。

『ここ梁山泊の浅春二タ月ほどもめずらしい。泊中はなんとも毎日なごやかで、
水塞に矢たけびなく、烽火台に狼煙の音もしなかった。しかし、中央から地方へかけて
官軍のうごきは、決して万里春風の山野、そのままではなかった。』

例によって、終巻を構成するドラマの章のタイトルを紹介しよう。

官衣の妖人があらわす奇異に、三陣の兵も八裂の憂目に会うこと。
羅真人の仙術、人間たちの業を説くこと。
法力競べの説。及び、李逵を泣かす空井戸のこと。
禁軍の秘密兵団、連環馬陣となること。
さらに注ぐ王軍の新兵器に、泊軍も野に生色を失う事。
屋根裏に躍る‘牧渓猿’と、狩場野で色を失う徐寧のこと。
工廠の槌音は水泊に冴え、不死身の鉄軍も壊滅去ること。
名馬の盗難が機縁となって三山の怪雄どもを一つにすること。
三山十二名、あげて水滸の賽へ投じること。
木乃伊取りが木乃伊となり、勅使の大臣は質に取られること。
喪旗はとりでの春を革め、僧は河北の一傑を語ること。
売卜先生の卦、まんまと玉麒麟を惑わし去ること。
江上に聞く一舟の妖歌「おまえ待ち待ち芦の花」。
浪子燕青、樹上に四川弓を把って、主を奪うこと。
伝単は北京に降り、蒲東一警部は、禁門に見出される事。
人を殺すの兵略は、人を生かすの策には及ばぬこと。
はれもの医者の安先生、往診あって帰りは無い事。
元宵節の千万燈、一時のこの世の修羅を現出すること。
直言の士は風流天子の朝を追われ、山東の野はいよいよ義士を加える事。
百八の名ここに揃い、宋江、酔歌して悲腸を吐くこと。
翠花冠の偽せ役人、玉座の屏風の四文字を切り抜いて持ち去ること。
徽宗皇帝、地下の坑道から廓通いのこと。並びに泰山角力の事。
飛燕の小躯に観衆はわき立ち、李逵の知事服には猫の子も尾を隠す事。


  10.新平家物語                            2005年2月記

第1巻

新平家物語
(全16巻)

吉川英治著

講談社出版

今年のNHK大河ドラマ『義経』がこの年頭から始まっている。

ここ数年、大河ドラマを見ることはなかったが、今年はこのドラマを見ながら、
源平の反対の立場・平家側から書かれたこの本を読みなおすこととした。

この本は、吉川英治氏が七年の歳月をかけて書かれた、超大作(16巻)である。

第1巻は、清盛の貧しい少年時代から時子との結婚、そして平氏のリーダと
なっていく過程が描かれる。

また、鳥羽法皇を中心とした、宮廷と藤原一族内の権力争いの描写も生々しくおもしろい。

主な登場人物
(今回は平氏系を記す)

伊勢ノ平太清盛(後の平 清盛)
時子(妻)
重盛(長男)
基盛(二男)

正盛(祖父)
忠盛(父、本当の父かは?)
泰子(母)
経盛(弟)
有子(義母)
家盛(義弟)
頼盛(義弟)
忠盛(義弟)

木工助家貞(郎党)
忠正(叔父)

権太夫時信(時子の父)
時忠(時子の弟)
滋子(時子の妹)



第2巻

第2巻では、平安時代に終わりを告げ、平氏、源氏の武家政治へと転換するきっかけとなった
『保元の乱』が描かれる。

この当時、天皇の上に上皇がおられるという変則的な院政が敷れた時代である。
いずれの世も、並び立つ者は仲が悪い。

保元元年(1156年)7月11日、睨み合っていた天皇側と、上皇側とで遂に戦乱となった。
この皇室と皇室との戦いが『保元の乱』である。

それは、父と子、兄弟、叔父甥を真二つに分けての戦いであった。

たとえば、
<内裏方>       <新院方>
後白河天皇・・(
ご兄弟)・・崇徳上皇
関白忠通 ・・・(
兄弟)・・左大臣頼長
同    ・・(
父子)・・宇治入道忠実
源 義朝・・(
父子)・・源 為義
同   ・・(
兄弟)・・頼賢、為朝等6人
平 清盛・・(
叔甥)・・平馬助忠正

後白河天皇側は上皇側を破り、崇徳上皇は讃岐に流された後、9年後に死亡する。

吉川英治氏は文中で、
『まことに、保元の乱を書くことは苦しい。
その時代から8世紀もへだてた今日においても、そくそくと胸が痛んでくる』
と書いておられる。


第3巻

第3巻では、最初の源平合戦となった『平治の乱』が描かれる。

保元の乱に勝った後白河天皇は、1158年(保元3年)に退位して院政を始めたが、
その周辺を取巻く、公家や武士の間で権力争いが激しくなっていた。

公家では、藤原信西と藤原信頼、武士の棟梁では、平清盛と源義朝である。

ついに1159年(平治1年)12月、信頼・義朝は、清盛が熊野参詣に出かけた隙間をついて挙兵し、
後白河上皇と二条天皇を内裏に幽閉し、信西の邸宅を焼き払い自害させた。

しかし、急ぎ帰京した清盛は、天皇・上皇を救出するとともに、信頼らの占拠する大内裏に
攻撃をかけ、激戦の末、義朝の率いる軍勢を破った。

義朝は逃亡の途中、家来に謀殺され、長男義平は斬罪、三男頼朝は伊豆へ流罪、
八男義経は鞍馬へと送られる。

この平治の乱後、平氏一門の急激な政界進出が始まる。


第4巻

平治の乱に勝利した平家一族は、隆盛を極め、一族の総師、平清盛は、
平相国(へいしょうこく)と呼ばれた。

世の権力は、完全に公家から武士へと変わっていった。

『平家に非ずんば人にあらず』とこの世の春を謳歌する陰に、平治の乱で破れ、
謀殺された源義朝の子供が成長しつつあった。

京都鞍馬の寺へ預けられた牛若である。

鞍馬を脱出し、母常磐にひそかに別れを告げた牛若は東へ向かう。

途中の熱田で、元服を行った。自ら文字を選んで、源九郎義経と名乗った。16歳であった。

『あなたはたしか義朝どのの八男ではないか。八郎義経ではないのか』
との問いに、
『叔父、鎮西八郎為朝のお称えを憚って、八男ですがわざと、九郎義経といたしました。
あの叔父君の潔い節操に真似びて、せめては、弟ほどな、九郎とも
成らばやという心から』と牛若は答えた。

その東、伊豆には、まだ見ぬ兄頼朝がいる。



第5巻

京都鞍馬を脱出した源九郎義経は、源氏の残党に守られて、はるか奥州の平泉に入る。
その頃の平泉は、黄金の都と呼ばれ、藤原清衡、基衛、秀衛三代の秀衛の世であった。

義経は、秀衛に手厚くもてなされたが、ある日忽然と姿を消した。

その頃、伊豆へ流されていた源頼朝は、その保護者である当地の奉行、北条時政の娘
北条政子と運命的な出会いをしていた。

一方、都では、反平家方の勢力が次第に高まり、後白河法皇を中心とする『鹿ケ谷会議』
等が行われていた。
しかし、それも発覚し、清盛によってもろくも制圧される。


第6巻

高倉天皇の中宮となった平清盛の娘、徳子は御子(後の安徳天皇)を出産した。
平家一門を挙げて、その慶事にひたっていた。

その頃
平泉の藤原秀衡のもとから姿を消していた源九郎義経は、紀州熊野の新宮に現れていた。

源氏の再興を期する面々が、義経の周囲を騒がしくし、それらに守られて京へ上る。
そして、弁慶と出会う。

しかしすぐ、また平家に追われる様にして、平泉へ向かう。

京都では、再び、後白河法皇を中心とする反平家活動が露見し、
後白河法皇も清盛に捕らえられる。

この頃、清盛は62歳、義経は20歳である。



第7巻

治承4年、高倉天皇は20歳でご退位され、新帝安徳天皇(清盛の孫)が即位された。
まだ3歳であった。

反平家の機運があちこちでくすぶる頃、かっての天皇筋である以仁王から、
平家打倒の令旨が源氏へ降った。

この令旨を受けて、京では76歳の源頼政、伊豆の源頼朝、
木曽の源義仲などが次々と挙兵する。

以仁王と源頼政を討った平家は、突如として都を京から福原(神戸)へ遷した。

北条時政父子と共に旗揚げした頼朝は、幾多の戦いを経て、鎌倉への入城に成功する。

いったん鎌倉入りし、政子と再会した頼朝も、駿河に迫る平家軍2万に対し、
すぐに鎌倉をはなれて、平家軍に向わねばならなかった。

源平合戦第1弾、富士川の戦いが始まる。



第8巻

頼朝を大将とする源氏と、清盛の孫維盛を大将とする平家軍は、富士川で対峙する。

意気が上がらぬ平家軍は、夜明け前源氏軍の一斉攻撃に、あえなく総崩れし、都へ退却する。

奥州の平泉から駆けつけた九郎義経は関東の黄瀬川の陣で、兄頼朝と初対面する。
しかし兄頼朝には、なぜか、兄としての温かさが感じられなかった。

この年の6月に、京都から福原(神戸)へ遷都を命じた清盛は、
その年11月には再び都を京都へ移したり、南都(奈良)東大寺の大仏殿に
火を放ったりの暴挙をきわめていた。

一方、頼朝の従兄弟、信濃の木曽義仲は、野火のように勢いを伸ばしていた。
その木曽義仲には、正妻の巴と妾の葵ノ前が女武者として競うように従っていた。

平家を取巻く世態の厳しい折、太政大臣平の清盛は突然高熱を発して死去した。

世人は、
『太政入道は、仏罰にあたって死なれた。怖いものではある』と噂したという。



第9巻

平清盛の死去後、比叡山の山門大衆を中心に、『国々を私にわけ取り、皇室にわが娘を入れ、
聖廟を一門で占め、連年の民苦も現下の飢饉もかえりみはせぬ』
『南都の大仏殿を焼いた』
『平家は天台叡山にとって仏敵だ』との平家非難の声がみちてきた。

こんな中の京に、一気に駆け上がったのは、木曽の源氏、義仲であった。

清盛なき京では、平家を取り仕切るリーダにも欠けて、
一門都落ちという最悪の事態を迎えた。

西へ向かって、落ちていくのは、幼帝安徳天皇(清盛の孫)、おん母賢礼門院(清盛の娘)と
三種の神器を守る、宗盛(清盛の子)など平家一門である。

しかし、老獪な後白河法皇は、ひそかに院の御所を抜け出て鞍馬山を経て
比叡山へ向かわれた。

こんな中、入洛を果たした義仲は、朝日将軍とあがめられながらも
西に平家、東に頼朝、南都の僧兵そして叡山と四面楚歌の毎日であった。


第10巻

木曽の田舎から一気に都に駆け上った義仲であるが、老獪な後白河法皇、東の鎌倉勢(頼朝軍)、
西の平家、南都の僧兵や比叡山等の動きに、休まる日々はなかった。

院では、御幼少の後鳥羽帝を践祚され、西国の平家が奉ずる安徳天皇と
ニ人天皇の世となった。

ついに鎌倉の頼朝は、義仲討伐の軍を発した。
頼朝の弟蒲冠者範頼を総大将に、義経を搦め手軍の大将にして。

義仲と義経は宇治川での対戦となったが、義仲軍は総崩れし、主従十騎ばかりで、
北の方面に落ちのびていった。

風雲児木曽の義仲もついに琵琶湖の南、粟津ケ原で、三十一を末期として、生命を終わった。

正妻の巴、女将軍葵、そして山吹など、義仲を取巻く女性の最後のドラマはすさましい。

いよいよ義経は入京し、後白河法皇と対面した。義経26歳であった。



第11巻

都落ちした平家一族は、三種の神器と共に、安徳天皇とおん母の建礼門院を守って、
讃岐の屋島(今の香川県高松市の東)を拠点とし、西海に勢力を挽回していた。

後白河法皇の平家討伐の院宣を受けた頼範は、京都から陸路南ルートで、
義経は亀岡、篠山を通っての北ルートで、決戦場の一ノ谷へ向かった。

『まず、先陣70騎は、義経に先んじて、敵の一ノ谷を真下にのぞく所へ出でよ。
そしてその絶壁より平家の真っただ中へと駆けおろせ。』と命令し、

『そして、この義経は残る手勢をつれて、ここより真南へひよどり越えを駆けくだし、
平家の本営輪田ノ岬へと突き進もう。
いざ行け、人々』と号令した。

天から降ったような源氏の鉄騎に平家軍は崩れたち、逃げ足は止まらず
舟で再び屋島へ逃げ落ちて行く。



第12巻

一ノ谷の合戦は、義経の奇襲と後白河法皇の策略によって、
源氏側の圧倒的に勝利に終わった。

しかし、京へひきあげた義経に対して、鎌倉の頼朝の態度は、なぜか冷たいものであった。

京での後白河法皇以下に圧倒的な人気を得ている戦の天才義経を、頼朝や側近達にとっては、
面白く思わなかったのである。

その後頼朝から発表された、一ノ谷の合戦の論功行賞の中には、義経の名前はなかった。

そして頼朝の平家追討の命令も、義経には下らずに、もう一人の兄範頼に下ったのである。


第13巻

平家追討に山陽の陸路を西に下った源範頼は、平家軍の反撃にあって、
備前(岡山)の児島に立ち往生する。

屋島(四国の高松)を拠点に猛威をふるう平家軍に対し、ついに鎌倉の頼朝から
義経に平家討伐の命令が下った。

敵の裏をかくために、暴風雨の中、わずか150騎で渡辺(大阪)の浜を発った。

渡辺を出て、海路淡路島の東を通って、四国の勝浦(徳島)には、わずか6時間で渡ったという。

四国の陸路を経て、屋島に着くや、もう平家は8歳の安徳天皇と3種の神器を
守って、逃げ支度であった。

屋島の合戦が始まった。

屋島の合戦といえば、平家がかかげた『扇の的』とそれを見事に射止めた、那須余一である。


第14巻

兵庫の一ノ谷の合戦に続いて、四国屋島の合戦でも、源氏義経軍の大勝であった。

8歳の天皇を擁して、ひたすら西へ向かった平家は、清盛の4男の知盛が城塞を構える
彦島(下関と門司間の島)へ落ちて行った。

しかし、彦島の海上・壇の浦の戦いにおいても、神は平家に味方する事はなかった。

安徳天皇の最後、入水の場面を、小説から以下に引用させていただく。

---山鳩色の御衣に、御髪はみずらに結わせ給い、つねの御癇症や、だだっこの、
み気色もなく、ふしぎとお素直に、うなずいていらっしゃる。
そして、尼(清盛の妻時子)のするとおりに小さな手をあわせられたようだった。
とたんに、あっーと小さい叫びがし、お姿は、尼の体と一緒に、この世と
海づらの間を、さっとひるがえりつつ、沈んでいった。---


第15巻

源平合戦の最後の戦い・壇ノ浦の戦いに勝利し、京へ凱旋した義経に対し、
鎌倉の頼朝の仕打ちはあまりにも過酷であった。

義経にたいする院等の人気に対し、将来への過度な怖れや、梶原の讒言をも
入れた猜疑心によるものであった。

ついに、義経斬るべしとの号令を発し、頼朝は大軍を率いて出陣した。

義経や愛妾・静以下二百余騎は、京を脱出し西国へ向かうが、大物(尼崎)の沖で
暴風雨にあって、全船難破しほとんどの部下を失っての逃避行が続く。

鎌倉の頼朝によって、日本の土地の上に、初めて、守護地頭の制が布かれ、
武家政治の形が誕生したのである



第16巻(終刊)

長編小説もいよいよ終刊である。

頼朝の兵に追われた義経ら7人は、難破した船から流れ着いた泉州から、
吉野、伊勢、伊賀等をへて、ひそかに京の鞍馬に入り静と再会する。

しかし、少年時代を過ごした鞍馬も、もはや安住の所ではなかった。

義経のかっての保護者であった、藤原秀衡を頼っての東北平泉への苦難の逃避行が始まった。

歌舞伎『勧進帳』で知られた、避行途中の加賀、安宅ノ関での弁慶の
勧進帳の描写は圧巻である。

義経が平泉に着いたその年、義経の保護者・藤原秀衡が忽然と死亡する。

秀衡の後を継いだ泰衡に対し、頼朝は『義経を差し出すか、朝敵たるか』とせまり、
大軍を発したのである。
秀衡の子・泰衡もまた、平家の子達と同じように、世を知らぬものであった。

泰衡は義経の館へ不意打ちをかけたのである。

義経の最後が、感動的に描かれる。