27.真田太平記                       2007年11月記   

第1巻  天魔の夏

池波正太郎著

新潮文庫

(株)新潮社

又々、池波正太郎である。
先に読んだ『蝶の戦記』では、織田信長がほぼ天下を平定するところで終わった。

この本は、その織田信長と徳川家康の連合軍によって、武田軍団が完全に
滅ぼされるところからストーリーが始まる。

全16巻のこの長い物語は、織田信長から徳川二代将軍・徳川秀忠の時代までが描かれる。

その間の、武田勝頼、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将の中に
必死に生き延びる真田家の歴史がこの本のストーリである。

第1巻は、
武田を滅ぼした織田信長が、中国の毛利家との戦に出陣準備中に、京都の本能寺で、
明智光秀に襲われ死ぬところで終わる。


第2巻   秘密

天下統一を目前にした織田信長の死によって、その跡目をめぐる戦いが始まった。
羽柴秀吉と徳川家康の小牧・長久手の戦い等である。

上・信二州に小さな城を持つ、真田昌幸は、小牧・長久手の戦いの趨勢を
息を殺して注視している。

この間、真田昌幸の二人の息子、兄の源三郎信幸と弟の源二郎幸村は
たくましく成長していく。

後に、大阪城で活躍する、真田源二郎幸村は、この時18歳である。


第3巻  上田攻め

織田信長の跡目をめぐる戦い・羽柴秀吉と徳川家康の小牧・長久手の戦いは、
決着がつかずに双方の引揚げとなった。

豊臣秀吉と名を変えた秀吉は、九州薩摩の島津義久を屈服させ、
小田原の北条氏政・氏直父子を攻めおとし、ここに、遂に天下統一が成し遂げられた。

信州に上田城を築城した真田昌幸は、長男・源三郎信幸に家康から嫁をもらい、
秀吉へは、次男・源二郎幸村を人質として差し出さざるをえなかった。

しかし、天下統一をなし遂げた豊臣秀吉には、子・鶴松の死や弟・秀長の死等の不幸が
待っていた。

天下人となった太閤秀吉は、意のままにならない千利休に死を与えたり、
無謀ともいえる朝鮮国への出兵へと突き進んでいく。



第4巻   甲賀問答

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、日本平定だけでは物足らないかの如くに、
朝鮮への出兵を号令する。

玄界灘の彼方に朝鮮半島と対面する、肥前松浦の名護屋城を秀吉の本陣とし、
名護屋に徳川家康をはじめ諸大名を集め、小西行長ら14万人を朝鮮へ渡らせた。

しかし、開戦当初の景気をよそに、戦況も次第におかしくなってくる。

この間に秀吉の母・大政所の死があったりして、秀吉を取巻く周囲には
重苦しい気配がただよってくる。

豊臣のほころび目をかぎつけた甲賀の忍びや真田の草の者達のひそかな活躍が始まる。


第5巻   秀頼誕生

日本国の統一だけでは飽き足らず、明(中国)や朝鮮まで出兵した太閤秀吉にも、寿命が近づきつつあった。

死に臨み、秀吉の心配はひとつ、幼い跡取りの秀頼(6歳)のことであった。

63歳の生涯をとじる13日前に書いた遺言状は次のごとくであったという。

『五人の大老たちよ。秀頼のことを、くれぐれも、たのみまいらせる。たのむ。たのむ。
自分はまもなく死ぬるが、まことに、名残りおしいことじゃ。
秀頼が大きくなり、立派に豊臣家のあるじとなるよう、たのみまいらせる。
このほかに、おもいのこすことはない。

八月五日    秀吉

いえやす(家康)
ちくぜん(利家)
てるもと(輝元)
かげかつ(景勝)
ひでいえ(秀家)

まいる』

秀吉の死後、大阪城の秀頼側と、京都の伏見城に陣取る徳川家康との確執が
いよいよ険しくなってくる。


第6巻   家康東下

秀吉の生前には一本にまとまっていた大名達も、秀吉が死ぬと、かっての朝鮮出兵時の
文治派と武断派の対立が表面化してきた。

石田三成らの文治派は、秀頼やその母・淀の方に接近し、武断派の加藤清正や福島正則等を
遠ざけ始めた。

家康はこれらの対立をたくみに利用し、勢力の分断をはかって行く。

京都の伏見城から大阪城へ入った家康は、とうとう意に沿わぬ奥州の上杉景勝討伐の
兵をあげた。

奥州へ向かって、大阪城を留守にする間に、石田三成は蟄居中の佐和山城から大阪城に入り、
家康への反旗を揚げたのである。

家康に従って、奥州へ向かった真田昌幸・信幸・幸村父子は、急遽会談し、昌幸と幸村は大阪方へ
参陣するために信州上田へ帰り、信幸は家康陣に留まることとなった。


第7巻   関ヶ原

徳川家康は、石田三成が家康へ反旗をあげた事を知って、ついに慶長5年(1600年)9月1日、
3万3千の本軍を率いて江戸城を発し、西上の途についた。家康59歳。

西軍の将・石田三成は、大阪城をたって、大垣城に入っている。

関ヶ原に集結した兵力は東軍10万4千、西軍8万2千であった。
秀忠軍の4万は、信州上田城の真田父子の反撃にてこずりいまだ関ヶ原に到着していない。

9月15日、
霧が上がった午前8時頃に始まった戦闘は、西軍の小早川秀秋等の東軍への
寝返り等があったりして、11時には東軍勝利が決定的となった。

9月27日、家康は大阪城へ入城を果たし、そして10月1日、敗軍の将・石田三成や
小西行長、安国寺恵瓊等が京都六条河原で処刑された。


第8巻   紀州九度山

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は西軍の諸将、毛利輝元や上杉景勝
島津義弘などの減俸処分を行った。

西側に組した上田の真田昌幸、幸村父子は西側に組した真田信幸の義父
本田忠勝の懸命の助命によって死罪を免れ、紀州九度山に蟄居させられる。

一方の真田信之(信幸から改名)は父・昌幸の所領が加えられて、
9万5千石の大名となった。

慶長8年(1603年)
徳川家康は天皇から、征夷大将軍に任じられ、ついに朝命を受けて江戸幕府を開いた。

家康62歳、秀忠25才、昌幸54歳、信之37歳、幸村36歳、豊臣秀頼11歳、
その妻千姫(家康の孫)7才であった。

慶長10年
徳川家康は息・秀忠に将軍位を譲って以後は『大御所』とよばれることとなるが、
実権は依然家康の手にある。

65万石の一大名となった大阪城の豊臣秀頼と、誇り高き生母・淀の方や取巻きと家康の間には、
確執が続く。


第9巻   二条城

息・徳川秀忠に二代将軍の座をゆずり大御所となった家康は、慶長16年(1611年)
5万の大行列で、駿府を発し、上洛の徒についた。
この時、家康70歳、秀忠33歳、九男義直12歳。

豊臣秀頼は、淀君らの反対をおして、加藤清正や浅野幸長等に付き添われ、
大阪城から上洛し、京都の二条城で家康と対面した。

出迎えた家康は、堂々たる体躯と19歳の若さにみちた端正な顔をした秀頼に接し、
笑顔で迎えたもののその目は笑ってはいなかった。

加藤清正や浅野長政、そして九度山の真田昌幸ら大阪恩顧の大名が次々と死去するにあわせて、
これより、家康の秀頼つぶしの計画が着々と進行していく。


第10巻   大阪入城

豊臣方は京都において地震によって崩壊した方広寺と大仏を再建中であった。

徳川家康はこの大仏殿の大梵鐘の鐘銘の中に『国家安康』と『君臣豊楽』という言葉を見つけ、
これは家康の名を『安』の一字で切断し、豊臣家を君主として末長く楽しむという意味であり、
『この鐘銘は徳川家に呪をかけ、調伏せんとしている』という言いがかりを
豊臣側に吹っかけたのである。

かくして、関ヶ原の戦いから14年後の慶長19年12月(1614年)、
大阪冬の陣の合戦が始まった。

東軍は二百に近い大小名をあわせて、約20万の大軍、西軍は浪人らの寄せ集めの約10万の
兵であったという。

大阪城に入城し、徳川家康を苦しめた真田幸村の善戦もむなしく、休戦となったが、休戦の誓紙交換の
翌日には、徳川家康は『すぐさま、城の外濠を埋めよ』との命令を発した。


第11巻   大阪夏の陣

大阪冬の陣において、和議休戦となった翌日から、徳川家康は
豊臣秀頼の大阪城の外濠のみならず内濠までも埋め立てていった。

74歳となった家康は、『わが目が黒いうちに・・・』豊臣家の終息を見とどけたいという
願望が強い。

一方の大阪側は、淀君をはじめとする大野治長らの側近に取り囲まれた、秀頼の
『関東の謀略におちいり、恥を後世に残すよりは、はなばなしく決戦すべし』との決断となった。

元和元年(1615年)5月7日朝、大阪夏の陣の幕がおりた。

濠を埋められ、裸城となった大阪城は、1日とももたなかった。

最後まで大阪側についた、真田幸村も49歳の生涯を夏草の中で閉じた。

ついに大阪城が落城し、豊臣秀頼(23歳)、淀君(49歳)、大野治長らも自害、
豊臣家がここに滅亡することとなった。


第12巻(最終章)   雲の峰

大阪夏の陣の翌年、元和2年4月17日、徳川家康は駿府城で75歳の生涯を閉じた。

二代将軍秀忠は、翌年4月に、父・家康を下野の国・日光山の
神社(東照社)へ『東照大権現』という神様として祀ったのである。
この年秀忠は39歳のはたらきざかりであった。

父と子、兄と弟で東と西に分かれて戦った真田家で、生き残ったのは
東軍へみかたした真田信之であった。

真田家は、その後も明治維新まで信州松代10万石として栄えたという。

この長い小説もいよいよ最終章となった。

  28.やばいぞ日本                           2008年6月記

その1

著者
産経新聞
『やばいぞ日本』
取材班

発行
産経新聞出版

この本は、昨年7月から半年間66回にわたって、産経新聞に掲載された『やばいぞ日本』
を再構成されたものである。

現在の日本が、危機的な状況に直面しているにも係わらず、多くの日本人はいまだに気付ていない・・・。

その危機的な状況について、教育編、外交編、エネルギー編、そして国防編から論じられている。

戦後の平和と反映に酔っている間に、いつの間にか近隣の中国や韓国から
追い越されつつあるとの指摘である。


その2

敗戦後奇跡的に復興した日本は、20年程前には、『ジャパン・アズ・No1』と
もてはやされたものである。

しかし現在、教育水準においても、国家の外交面においても、エネルギー資源においても、
特に国防意識においても、二流国になり下がってしまったようである。

しかも、その危機的な状況の深刻さに、日本人は気づいていない・・・・と。

この困難な状況の救国シナリオは以下通りであると・・・・・。

1.
明治維新や終戦直後の改革のように、退路を断った思い切った改革が必要。

2.
そのためには、『覚悟の戦略』をもったリーダーが必要。

3.
年長者が次世代をきちんと教えて、人間関係を安定させる。