29.翔ぶが如く                       2008年7月記   

第1巻

司馬遼太郎著

文春文庫

(株)文藝春秋

『文藝春秋』7月号の特集は、『司馬遼太郎、日本のリーダーの条件』であった。

作家・司馬遼太郎氏が多くの本に残した、日本のリーダー像について語られている。

現在日本の混迷した社会、政治、経済は明治維新のような大転換と
そのリーダーが必要であるといわれている。

この『翔ぶが如く』は、明治維新後の新政府のリーダー達の生き様が書かれている。

西郷隆盛の征韓論と大久保利通の反征韓論との戦い、そして西南戦争への突入と終結までが、
全十巻に描かれている。

手元にあるこの本は、今から25年前の1983年の版で、大分に変色している。
何回目の読みになるのだろうか。


第2巻

徳川幕府を倒し明治維新の立役者となった、西郷隆盛には大きなジレンマがあった。

維新後の大改革である、版籍奉還や廃藩置県等によって諸大名や
士族階級の特権が奪われた。

さらにこれらの改革に平行して行われた徴兵制度によって、
士族階級は最後の名誉であった武の特権まで奪われたことである。

西郷はこれらの改革に理性では理解しつつも、その感情は
旧階級の没落を見るに忍びなかった。

この西郷のジレンマの解決策が、『征韓論』である。

失業中の士族階級を韓国に派遣し、明治維新という革命を韓国に輸出し、
これによって日本も助かり韓国もよくなるという理論である。

幕末、西郷にはじめて接触した時の坂本竜馬が、『あれはおおいなる鐘のような男だ』
と評したという。
『小さくつけば小さく鳴り、大きくつけば大きく鳴る』との意味である。

西郷隆盛という巨人は、我々凡人にはとうてい理解しがたい人物である。


第3巻

明治6年10月14日、廟議が開かれた。出席者は、

太政大臣三条実美、37歳
右大臣岩倉具視、49歳
と、
西郷隆盛、47歳
副島種臣、46歳
大久保利通、44歳
大木喬任、42歳
江藤新平、40歳
そして、30代の
板垣退助、大隈重信、後藤象二郎ら
参議8名である。

反征韓論派、大久保利通の『征韓策をとれば国家は滅亡する』との論旨に誰もが駁論できなかった。
が、西郷のみは不死身であった。

結局、結論が出ぬまま日が暮れた。

明治6年10月の廟議(閣議)は、征韓論派と非征韓論派との激突であった。

最後の決着をつける廟議の前日、10月22日、
征韓論派の福島種臣、江藤新平、板垣退助ら参議は、西郷を誘って、
右大臣(太政大臣代理)の岩倉具視屋敷へ乗り込んだ。

岩倉は、『予は予が見たるとうりの廟堂の実情を君主(天皇)に対し開陳し奉り、しかるのちに
予の責任において予の意見を奏上する』
と・・・。

江藤の『卿の意見とは?』との問いに、
岩倉は
『予の意見は、諸卿とやや異なっている』
と・・・・。

この瞬間に、西郷の征韓論は敗れた。

4人の参議は憤然として席を立ち、玄関を出るや、西郷は他の3人を
顧み、一笑して、『右大臣、よく踏ン張り申したな』といったという。

西郷はこの時、自分の政治的敗北を認め、全てをすてて故郷鹿児島に帰ることを決意した。


第4巻

西郷隆盛の征韓論は、大久保利通らの反征韓論に破れた。
参議を辞職した西郷は、故郷の鹿児島で、日々、狩人の生活である。

しかし、東京で西郷を慕っていた軍人や官吏達は続々と職をすてて鹿児島へと向かっていった。

もとの司法卿・江藤新平も明治新政府に愛想をつかし、佐賀で叛旗をひるがえした。
佐賀の乱である。

しかし、迅速に動いた大久保によって江藤は捕らえられ、乱は静まったかに見えたが、
明治政府に対する不平分子のエネルギーは爆発寸前であった。

この反政府エネルギーをすこしでも抑えようと、大久保らが考えたのが、征韓論に変わって
台湾を討とうという征台論である。

明治7年5月隆盛の弟・陸軍中将西郷従道を長とする征台隊が長崎から出港した。


第5巻

日本国内の三百万士族を中心とする征韓論の熱を冷ます事を目的に
台湾へ出兵した軍隊は、マラリア熱にかかるなど散々であった。

各国列強の外交団や当の清国政府からのすさましい抗議にあって
三千余の兵は退きも進みもできない状況となった。

この状況の打開に、明治七年八月六日、全権弁理大臣大久保利通が清国に出発した。

50日に及ぶ談判も、第7回談判において決裂し、大久保らが台湾を引揚げようとする
直前に、大久保のねばりによって解決することとなり調印をおこなった。

西郷従道に率いられた出兵兵の死者は戦死者12名に対し
病死者561名であったという。

大久保は11月27日、横浜に入港した。


第6巻

明治新政府によって明治2年に版籍奉還『旧藩主・大名が版(土地)や籍(人民)を
天皇に返上』、明治4年には廃藩置県等の大胆な改革が行われた。

当時、東京医学校の教授として招聘されたドイツ人ベルツは、彼の日記の中で、

『日本はこの間まで、ヨーロッパの中世騎士時代だったのが、500年の時間を
飛び越えて19世紀の全成果を即座に、しかも一時に我が物としようとしている』と
記しているという。

これらのすさましい改革によって、旧藩主や士族の特権が失われたため、
彼等の不満が地方に充満している。

参議前原一誠は萩に戻って乱を計画し、熊本では林桜園の影響を受けた
神風連が熊本鎮台を襲撃する。

いずれの乱の首謀者達も、薩摩の西郷が早く立ってくれる事をひそかに願っている。


第7巻

西郷隆盛は、三百万士族の期待から逃れるように、薩摩の山中で、狩猟の日々を送っている。

しかし
新政府を転覆させようと考える、各地の反乱グループは、西郷の立ち上がりを、今か今かと
待っている。

西郷が、征韓論に敗れて、薩摩へ帰って作った私学校(実質は薩摩の軍隊)の生徒が、
政府の弾薬庫を襲撃する事件が発生した。

明治10年2月6日、私学校での最終の大評定が始まった。
出兵に対する、賛否両論が出た後、桐野利秋の『それでは西郷先生のご裁断を仰ぎます』の声に、

西郷はゆっくりと立ち上がり、会場を眺めていたが、やがて口をひらいた。

『自分は、何もいうことはない。一同がその気であればそれでよいのである。
自分はこの体を差し上げますからあとは良いようにしてくだされ』といったという。

この一言で、出兵が決定した。

西郷の考えは、あくまでも出兵には反対であったのにである。これより西南戦争が始まる。


第8巻

明治10年2月17日、西郷隆盛は、陸軍大将の肩書きで一万数千の兵を率いて出兵した。

南国の地の薩摩には珍しく連日の雪降りであった。

西南戦争が始まった。

東へ向かう西郷らに対する政府軍は、熊本城内の熊本鎮台(兵三千)である。

熊本鎮台司令長官、陸軍少将谷千城は、乃木希典らの政府援軍を
待っての篭城である。

薩軍の勇将、桐野利秋は、『熊本城は、この青竹でひとたたきでごわす』と言ったといわれるが、
政府軍を相手に、西郷の弟、小兵衛が戦死するなど西郷軍は苦戦の連続であった。


第9巻

西郷隆盛を大将とする薩軍は熊本城に篭城する政府軍にてこずり、
さらに政府軍の援軍を相手に、熊本城の北、田原坂の激戦においてもついに破れる。

この西南戦争の政府軍の大将は、山県有朋中将である。

この西南戦争に参加した政府軍の野津道貫(薩・中佐)、黒木為驕i薩・中佐)、乃木希助(長・少佐)、
大山巌(薩・少将)、児玉源太郎(少佐参謀)らは、後の日露戦争で活躍している。

ついに4月14日午前二時、西郷を乗せた駕篭が細雨が降る熊本の薩軍本営を出て行った。

薩摩士族に熊本士族を加えた薩軍一万人は、二千人程が死傷し八千人になっていた。

熊本を発った薩軍は、
熊本の南方、人吉に集結するのだが・・・。


第10巻

この長い小説もこの第十巻でいよいよ終巻である。

明治10年2月、雪が降る中、薩摩を出兵した薩軍は、4月に熊本を後にして以来、
九州を人吉、宮崎、延岡と転々としている。

政府軍は六万、対する薩軍は一万にも満たない。

この間、政府太政官では岩倉具視が東京で、三条実美、大久保利通、伊藤博文らが
京都で指揮をしている。

5月26日、
大久保への協力者であり、批判家であった木戸孝允もこの世を去った。

ついに、8月16日
西郷隆盛は、日向(宮崎)の延岡の北の山地で薩軍の解散命令を発した。

『我軍の窮迫、此処に至る。今日の事、唯一死を奮って決戦するにあるのみ。
此の際、諸隊にして、降るらんとするものは降り、死せんとするものは死し、
士の卒となり、卒の士となる、唯、其欲するところに任せよ』と・・・。

鹿児島を出る時に一万人余だった兵力は、途中での徴募で延べ三万人に
達していた薩軍の人数も、この段階で二千に減っていた。
さらに、この解散命令で千人になった。

この日西郷の愛犬二頭も放したという。

そして、17日、
西郷を囲んでの軍議の結果、西郷の決によって、生まれ故郷の鹿児島へ向かう事となる。

父祖の地へ駆けもどり、その土を踏み、その地で死にたいと・・・・。

日向の山中を一路南に向かい鹿児島に入ったのは9月1日であった。

この山中で死ぬ者、道に迷う者、戦死や脱落する者があって、
最後の城山に篭ったのは三百七十余人であったという。

  30.柳生宗矩                            2009年2月記

第1巻

山岡荘八著

山岡荘八
歴史文庫

講談社発行

さあ、次ぎは何を読もうかと思って本棚から引っ張り出したのはこの本である。

本の裏表紙には、昭和61年10月8日第1刷発行とあるから、今から20数年前に読んだ本である。
ほとんどストーリは覚えていないが、この当時、山岡荘八氏の『徳川家康』26巻等のシリーズを
夢中になって読んだ記憶がよみがえる。

中でも、剣の達人、柳生石舟斎やこの柳生宗矩はおもしろかった。

この第一巻は、柳生但馬守石舟斎宗厳の五男柳生又衛門宗矩が、父石舟斎とともに、京都で
徳川家康に謁見するところから始まる。

1598年8月18日
不生出の英雄太政大臣従一位豊臣秀吉は63歳を一期としてついにこの世を去った。
柳生宗矩28歳。


第2巻

不世出の英雄、豊臣秀吉が世を去ると、世の中は一気に不穏な空気となる。

秀吉の子、秀頼を擁立する石田三成の関西勢と徳川家康らの関東勢との
激突が始まった。1600年9月15日の関ヶ原の戦いである。

徳川家康の側近となった柳生宗矩は、家康に近侍し戦功をあげ、
この戦いは東軍の大勝に終わる。
その後、宗矩の戦功が認められ、家康の子、大納言秀忠の兵法指南となる。
宗矩31歳。

1603年、家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。
この年、秀頼に、秀忠の子・千姫をめあわす。


第3巻

徳川家康は、1605年には、征夷大将軍の座を息・秀忠に譲り、大御所と呼ばれる。

そして、一旦は天下泰平の世になったかと思われたが大阪城の秀頼の周辺では、
不穏な空気が漂い始める。

関ヶ原の合戦から14年後の1614年、大阪秀頼側と江戸の徳川との
戦いが始まり、徳川側の勝利に終わる。大阪冬の陣である。

翌1615年、再び大阪側に再挙の恐れあるとして、大阪夏の陣が始まり
秀頼と生母・淀の方は大阪城内で自決し戦いは決着する。

その翌年4月、
前征夷大将軍徳川家康が没す。75歳。

1619年、
宗矩の子・柳生十兵衛三厳は秀忠の子・三代将軍となる家光の小姓となる。


第4巻

1923年
徳川家光は、若干二十歳で徳川三代目征夷大将軍となった。
前将軍秀忠から家光の後見を託された宗則の責任は重く、苦悩の始まりでもあった。

宗矩の息、十兵衛三厳に次いで次男友矩をも家光の小姓として差し出した。

しかし、家光と友矩との関係において将軍家師範の宗矩として、他の大名への手前、
息・友矩を許せない事態が出来した。

人の上に立たねばならない人間は、時として我子をも誅せねばならないときがある。

家康は四男・忠輝を切腹させ、秀忠もニ男・忠長に切腹を命じた。
そして、宗矩もまた、次男・友矩に死を与えねばならなかった。

1646年
徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に師範として仕えた、柳生宗矩は、没した。
76歳であった。

柳生宗矩、第4巻で最終巻である。