31.宮本武蔵                       2009年4月記   

地の巻

吉川英治著


講談社発行

この本は、昭和56年発行であるから今から28年前に買って読んだ本である。
読むのは今回で3度目になると思う。

昭和11年の初版で、吉川英治氏は序文に次のように書かれている。

『繊細に小智にそして無気力に堕している近代人的なものへ、私達祖先が過去には持っていたところの
強靭な神経や夢や真摯な人生追求をも、折には、甦えらせてみたいという望みも寄せた。

とかく、前のめりに行き過ぎやすい社会進歩の習性に対する反省の文学としても、
意義があるのではあるまいか、などとも思った。
これらがこの作品にかけた希いであった』

初版から70年以上経た今なお、この序文は新鮮である。


地の巻では、17歳の新免武蔵(たけぞう)が、播州宮本村を飛び出し、
関ヶ原の合戦に加わるところから始まる。


水の巻

関ヶ原の戦いで破れた武蔵は、故郷宮本村に帰るが、故郷は甘くなかった。

沢庵和尚や姉・お吟、武蔵を慕うお通を振り切って、剣の道を求めて旅に出る。

そして、お通も武蔵を追って旅に出る。

武蔵の最初の戦いは、京都四条の吉岡道場である。
かって室町幕府の兵法所出仕となった吉岡道場であったが、主・吉岡清十郎の
留守もあり、到底武蔵の敵ではなかった。

明春に吉岡清十郎との決戦を約した。


火の巻

阿波の国から大阪へ通う船便に、子猿をつれた少年が乗っている。
少年は十九か二十歳ぐらいの美少年で、緋羽織の背中に、革紐で斜めに
大太刀を背負っている。反りがなく、竿のように長い。

船客とこの美少年の会話を聞いてみよう。

『周防岩国の産です。毎日錦帯橋の畔へ出て、燕を斬り、独りで工夫をやってきました。
母がなくなります際に、伝来の家の刀ぞ、大事に持てといわれてくれました
この長光の刀です。銘はありませんが、そういい伝えています。
国許では、知られている刀で、物干し竿という名があるくらいです』

この美少年こそが、武蔵と雌雄を決することになる佐々木小次郎である。

この小次郎もまた、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎との立会いを求めて京都へ向かっている。


風の巻

第3巻風の巻には、京都西北の蓮台寺野で行われた吉岡清十郎との果たし合い、

清十郎の兄・吉岡伝七郎との蓮華王院裏地での戦い、そして
吉岡門下60数名との1乗寺下がり松での決戦が画かれる。

一乗寺下がり松での武蔵の挨拶は、次のように書かれている。

『約定によって、生国美作の郷土宮本無二斎の一子武蔵、試合に出て参りました。
名目人源次郎どのはいずれにおわすか。前の清十郎殿や伝七郎殿のごとき
御不覚あるなよっ。

ご幼少とのことゆえ、助人は何十人たりとも存意のまま認めおく。
ただし武蔵はかくの如く唯一名にて参ったり。
一人一人かからるとも、総がかりに来られるともそれも勝手。
いでやっ。』


空の巻

武蔵が武士道を究めようと修行するこの小説で、唯一つ花を添えるのが、お通である。

武蔵を慕うお通は、武蔵を追って旅するが、いつもすれ違いとして描かれる。

今お通は、故あって江戸で、将軍家指南役の柳生但馬守宗矩のもとにいる。

そして武蔵もまた、江戸のそんなに遠くない所にいるのだが・・・。

佐々木小次郎も江戸に・・・・、武蔵を仇と狙って追っているお杉ばばもまた、すぐ近くにいる。

老いの一徹者として描かれるお杉ばばの言動も面白く描かれている。


二天の巻

この小説の脇役として、お通が魅力的は女性として描かれるが、もう一つの脇役が、
城太郎少年とと伊織少年である。

城太郎は、京都の居酒屋の丁稚小僧であったが、武蔵と会って以来、
武蔵について旅することになる。

伊織は、母とは早くに死に別れ、父の死にあったところで武蔵と出会う。

そして伊織の持つ父の形見、革巾着の中身から、お通こそが、幼いころに生き別れた
姉であることが判明した。

二人とも武蔵を師匠として尊敬し、武蔵を慕って旅をするが、・・・・。

武蔵とははぐれっぱなし


円明の巻(最終巻)

宮本武蔵と佐々木小次郎の決戦の時がきた。

場所は九州小倉は赤間ケ関の沖の船島である。

戦いの最後の模様を、本文から以下に引用させてもらう。

『巌流は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。その切っ先から、敵の武蔵が締めていた
柿色の手拭が、二つに断れて、ぱらっと飛んだ。

巌流の眼に。
その柿色の鉢巻は、武蔵の首かと見えて飛んで行った。血とも見えて、颯ッと、自分の
刀の先から刎ね飛んだのであった。

ニコッ、と。
巌流の眼は、楽しんだかも知れなかった。然し、その瞬間に、巌流の頭蓋は、櫂の木剣の下に、
小砂利のように砕けていた。

磯の砂地と、草原の境へ、仆れた後の顔を見ると、自分が負けた顔はしていなかった。
唇の端から、こんこんと血こそ噴いていたが、武蔵の首は海中へ斬って飛ばしたように、
いかにも会心らしい死微笑を、キュッと、その唇ばたに結んでいた。』


小次郎の技と力の剣に対し、武蔵の精神の剣が打ち克ったのであると
・・・・・・・。

  32.世に棲む日々                         2009年8月記

第1巻

司馬遼太郎著

文春文庫

文藝春秋社
発行

幕末の志士、吉田松陰とその後継者達の物語である。

この本を読んでいて、ふと思ったことがある。
『この当時、歴史に名を残すような人は、よく日本国内を旅をしている。
しかも、当然のことながら歩いてである』

十歳で藩主(毛利慶親)に山鹿流兵学の講義をしたという秀才、吉田松陰の旅を抜出してみた

二十歳、萩から肥前平戸へ(藩外留学)。
五十日滞在し、天草から肥後熊本へ。
ここで終世の親友・宮部鼎蔵とあう。
四ヵ月余りの遊歴を終えて、萩へ帰る。

翌年、殿の参勤交代の先駆けとして江戸へ。

この年、脱藩して友人達と奥羽旅行。
水戸、会津、新潟、佐渡、秋田、弘前、
青森、盛岡、仙台、米沢、日光、
足利、館林、そして江戸へ帰ってくる
3ケ月の旅であった。

脱藩の罰として、萩へ護送される。
そして判決は、家録没収し追放であった。

浪人となった松陰は、殿さまの特別の
計らいで、10年間の修行に出ることとなった。
河内から大和、中山道を経て再び江戸へ。
ここで、佐久間象山に入門する。
江戸へ着いた翌日には鎌倉の肉親を訪ねる。

江戸に帰って佐久間塾で、
アメリカの黒船四艙が、大砲に砲弾を詰め、
照準を江戸に向け、浦賀湾に侵入したと聞く。
ペリー来航である。
びっくりして浦賀へ駈けて行く。
来春再び来るといってペリーは去った。
江戸へ帰る。

そして、江戸から長崎へ。
長崎からロシア艦に投じて、密出国するために。
しかし、長崎に着いたとき、ロシア艦はいなかった。

再度江戸へ帰った時、昨年の約束通り、再びペリーがやってきた。


第2巻

この当時(江戸末期)の英雄の行動力にはびっくりする。

今、江戸にいる24歳の吉田松陰は、広く世界を偵察しようと、再び来航した七隻のペリー艦隊に
乗り移ろうと横浜の下田に向かう。

しかし、ペリー艦隊への投艦に失敗し、幕府に捕えられる。
そして、檻かごに乗せられ萩へ送られる。

面白いことに、幕府の罪人でありながら萩では、実家での禁錮という形で過ごしている。
しかも、実家では、『松下村塾』をひらいている。

そこの塾生が、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文等である。

世は井伊直助大老の安政の大獄の時代となり、松陰は又江戸へ送られる。

そして幕府は死罪を宣告し、首を討った。吉田松陰、29歳の短い一生であった。


第3巻

吉田松陰の死後、松陰の松下村塾の塾生、高杉晋作の登場である。
彼もまた、日本国中を駆け回った。

晋作の父は長州藩の役人である。
江戸への留学を命じられた晋作は、江戸で、尊王攘夷派の桂小五郎や
久坂玄瑞らと交流を深めていく。

萩へ帰った晋作は、藩命により幕府の派遣使節について上海へゆくことになった。

初めて西洋の富力と文明に接した晋作は、これまでの議論派から革命家に変わっていく。

藩士過激派、高杉晋作らの影響により、長州藩は尊王攘夷へと傾き、
幕府と決定的な敵対関係になっていく。

元治元年(1864)七月に御所の蛤御門へ乱入しては破れ、禁門の政変に破れ、
馬関での英仏米蘭の四カ国艦隊との戦いに敗れる。

そして幕府軍は長州征伐へと向かう。

このころの晋作の行動を、後年、伊藤博文は、『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し』
と晋作の墓碑に刻んでいる。



第4巻
(最終章)

とうとう長州藩と幕府との対決が始まった。

長州の東の広島城下には、幕軍征長軍総督があり、下関海峡を隔てた
小倉城には幕軍副総督が配置されている。
その間を往復しているのが、幕軍参謀の薩摩の西郷吉之助(隆盛)である。

幕府に対し煮え切らない長州藩に対しクーデターののろしを挙げたのは
下関の高杉晋作の率いるわずか120人であった。

晋作のクデターは辛くも成功し、萩の藩政府に新政権が樹立した。

いよいよ幕府との開戦が始まった。『四境戦争』である。
幕府艦隊にかけた夜襲が成功し、長州軍は勝利し、勢いに乗った
長州軍は幕府の拠点小倉城をも落とす。

しかし、高杉晋作の寿命が迫っていた。

死の床において、辞世となる句『おもしろき こともなき世を おもしろく』と
上の句を詠んで、下の句を詠むことなく力が尽き筆を落とした。

わずか28歳の生涯であった。

明治維新はこのあと2年後である。