No.143 2009年3月上旬号 (3月15日発行) 写真はクリックで拡大 | ||||
RC ヘリ講座(26) ホバリングと上空飛行(その1) ラジコンヘリの飛行テクニックのステップは、第1段階がホバリングである。 せいぜい地上2〜3m以下の高さに浮上させて、機体をほぼ静止させるテクニックである。 このホバリングには、操縦者が機体の後に立って行う正面ホバ、 機体の側面に立つ側面ホバ、機体の頭側と対面する対面ホバとに分類される。 上級者は機体を糸で吊るしたように微動だにさせないテクニックを持っている。 対面ホバは、機体の姿勢がわかりにくく、操縦者に向かってくる危険性があるため、 難しく、いまだに恐る恐るの操縦である。 いずれにしても、機体を安全に離着陸させるためには、ホバリングの上達は 永遠の基礎技術である。 ホバリングがそこそこできるようになると、第二段階が上空飛行である。 地上20mぐらいまで上げて、上空を自由に飛びまわりスピード感を楽しむテクニックである。 飛行エリアは、400クラスの電動ヘリでは、機体の姿勢が目認できる範囲の 半径50〜60mぐらいの範囲であろうか。 ラジコンヘリに入門して、1年を経過した段階の私は、 目下この上空飛行を練習中である。 飛行第3段階は、曲芸的アクロバット飛行を楽しむテクニックである。 このテクニックにチャレンジするのは、まだまだ先の事である。 ところで、上空飛行の段階になり、よりスポーティな飛行を楽しむには、 プロポの設定が必要になってくる。 離陸して、ホバリング状態から上空へ上げた段階で、 プロポのアイドルアップスイッチ(上の写真参照)を入れることによって、 モーターの回転数とローターのピッチ角をよりスポーツ的な飛行の設定に 切り替えることができる。 この設定値は操縦者の技量と好みに依存するため、 個々に自分に合った設定を見つけ出して設定していくことになる。 |
||||
本(半X) |
編集後記とWhat's New | |||
柳生宗矩(3)
徳川家康は、 1605年には、征夷大将軍の座を 息・秀忠に譲り、大御所と呼ばれる。 そして、一旦は 天下泰平の世になったかと思われたが 大阪城の秀頼の周辺では、 不穏な空気が漂い始める。 関ヶ原の合戦から14年後の1614年、 大阪秀頼側と江戸の徳川との 戦いが始まり、徳川側の勝利に終わる。 大阪冬の陣である。 翌1615年、再び大阪側に 再挙の恐れあるとして、大阪夏の陣が始まり 秀頼と生母・淀の方は大阪城内で 自決し戦いは決着する。 その翌年4月、 前征夷大将軍徳川家康が没す。75歳。 1619年、 宗矩の子・柳生十兵衛三厳は 秀忠の子・三代将軍となる家光の 小姓となる。 |
ヘリ道の近況 今年になって、 従来の電動400クラスヘリ・ 京商製EPキャリバー400に、 新たにEPキャリバー450Vを加えた。 450クラスになって 寸法、重量が一回り大きくなり、 モーターのパワーも 200Wから300Wへと強化されている。 操舵系のリンケージが全舵両引きの リンケージになっていることもあって、 さすがに、飛行時の安定性とパワーが 優れている。 現在、上空でアイドルアップに切替へ、 上空飛行を練習中である。 ホバリング用のノーマル設定に比べて アイドルアップ設定による飛行は、 そのスピード感が全然違い、 スリル満点である。 写真は、EPキャリバー450V2号機。 |
No.144 2009年3月下旬号 (3月30日発行) 写真はクリックで拡大 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
RC ヘリ講座(27) ホバリングと上空飛行(その2) ラジコンヘリの飛行テクニックであるホバリングの次の第2段階は上空飛行である。 上空飛行の段階になると、ホバリングに比べて、よりスポーティな飛行となる。 スピードも早く、シャープな舵の切れが必要になってくる。 ホバリングから上空飛行に移行した時に、プロポ側で よりスポーティな飛行に適した設定に切り替えることができる。 その一つは、プロポのD/R(デュアルレート)スイッチをONにすることによって、 エルロン、エレベーター、ラダーの舵を大きくすることである。 もう一つは、プロポのアイドルアップスイッチをONにして、 モーターの出力とローターのピッチ角をよりスポーティな設定へ切替ができる。 これらの設定は、操縦者の技量段階と好みにより設定が異なり、 技量アップに合わせて、変更するのもおもしろみの一つである。 下表はまだまだ初心者の私の現在の設定値である。 D/R、EXPO 設定値 (%) EPキャリバー400/450V共
各サーボの動きを鈍くしたり敏感にしたりする。(−設定は鈍くなる設定) アイドルアップ設定値 (%) EPキャリバー400
アイドルアップ設定値 (%) EPキャリバー450V
スピードを制御する方法である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本(半X) |
編集後記とWhat's New | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柳生宗矩(4)
1923年 徳川家光は、若干二十歳で 徳川三代目征夷大将軍となった。 前将軍秀忠から家光の後見を託された 宗則の責任は重く、 苦悩の始まりでもあった。 宗矩の息、十兵衛三厳に次いで 次男友矩をも家光の小姓として差し出した。 しかし、家光と友矩との関係において 将軍家師範の宗矩として、 他の大名への手前、 息・友矩を許せない事態が出来した。 人の上に立たねばならない人間は、 時として我子をも誅せねばならないときがある。 家康は四男・忠輝を切腹させ、、 秀忠もニ男・忠長に切腹を命じた。 そして、宗矩もまた、 次男・友矩に死を与えねばならなかった。 1646年 徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に 師範として仕えた、柳生宗矩は、 没した。76歳であった。 柳生宗矩、第4巻で最終巻である。 |
小学校の卒業式 3月23日 母校の福知山市立細見小学校の 第119回卒業式に出席してきた。 少子、過疎化の中、 21名の卒業生であった。 国旗をバックに、一人一人 校長先生から卒業証書が授与された。 式典の最後は、 5年生の『仰げばと尊し』の バンドに送られての退場であった。 久しぶりに感動した一日であった。 私がこの小学校を卒業したのは 53年前の昭和31年であったはずだが、 卒業式の記憶は全く無い。 小学生時代の記憶で ただ一つ残っているのが、 終業式に担任の女の先生に ものすごく叱られたことである。 数年前に、この先生に出会った。 今となってはなつかしい思い出である。 |