1. 林住期                           写真はクリックで拡大     

林住期1年生      2003年10月記


花の寺第17番般若寺のコスモス

2003年10月15日、41年間の仕事に区切りをつけ、定年退職いたしました。

古いインドには、人生を4つに分ける考え方があったといいます。
(五木寛之著 『百寺巡礼』から引用)

学生期・・・若いうちに基礎的な勉強をする時期。
家住期・・・社会に出て一家を構え仕事に励む時期。
林住期・・・生活のための仕事からリタイアして、じっくりと人生とは何かを思考する季節。
遊行期・・・家をはなれて旅に生きる放浪の季節。(すべてをすてて旅に出る)

私にとって、今はまさに林住期1年生であります。
学生期、家住期を終えた、これからの10〜20年が
一生のうちで一番自由で価値ある季節であるように思います。

この新聞では、過去のことはできるだけ振り返らないこととし、
林住期の現代について記録していくこととします。


林住期 二年生     2004年10月記


我田舎町にも、今年もまた美しいコスモスの季節がめぐってきた。
2003年10月15日に会社を定年退職し、丁度丸一年が経過した。
この新聞も、発行して一周年を迎える事ができた。
退職後のこの一年は、まさに林住期一年生で半農半Xを試行錯誤の生活であった。

半農
メインは米作りで、農業機械士の免状も取り、米を1,400kgを収穫し、
自家用米を除いて1,100Kgを販売する事ができた。
サブは野菜つくりで、ほうれんそう、ジャガイモ、トマト、きゅーり、えだまめが収穫できた。
(なすは不調、病気なのか発育不全で、一つも食べられなかった)
まず一年生としては良しと評価しよう。

半X
小さな旅として関西花の寺25ケ所のお参りが満願できた。
念願の竹炭も焼けた。
詩吟にも入門し、今のところ続いている。

これからは林住期二年生である。
更なる充実を目指したい。


林住期三年生に進級       2005年10月記


季節は変わり、今年もまた美しいコスモスの季節がめぐってきた。

歳月のたつのはまったく速いもので、2003年10月15日に会社を定年退職してから、
丁度丸ニ年となり、この新聞も、発行してニ周年を迎える事ができた。

顧みれば、この二年間はまったく夢のごとく過ぎ去った感じで、
地域社会への参画や詩吟に入門等で、結構忙しい半農半X生活であった。

明日からは林住期三年生に進級である。


  2.秋祭り                           

2003年10月記



 


10月12日、我が王歳神社の秋季大祭であった。

年々、高齢化と少子化で神輿の担ぎ手が少なくなっていくようで寂しい。



2007年10月記


10月14日、当地区の氏神様王歳神社の秋季大祭であった。
三和町史によれば、王歳神社の祭神は仁徳天皇という。

また、大国主命を祀るとの記録もあるという。
天正三年(1575年)の創建で、明治二十六年(1893年)に再建され、現在の覆屋は平成になって
建替えられている。

姉川の戦いが、戦国時代の1570年であるから、
このお宮さんはほとんどその頃に創建されたものであり、歴史がある。

地元の歴史家によれば、この神輿は、江戸中期の1706年
岡田貞八郎という人の製作であるという。
京都嵐山の櫟谷(いちいだに)神社、京都松尾大社から兵庫県丹波市の二宮神社をへて、
江戸後期(1845年)に当王歳神社の所有になったという。
古文書丹波志に『葵の御紋付ナリ』との記載があり、徳川将軍家との
関わりがある神輿であるとのことである。

由緒あるお神輿であるが、何しろ重くって氏子も年々高齢化するためかつぎ手は大変である。


2008年10月記

(写真右は神輿渡御前の記念撮影、白い法被が櫟谷会の皆さん)

10月12日(日)は当地域の氏神さん・王歳神社の秋季大祭であった。

9時に祭礼、各団体さんによる催しの後、午後1時30分から恒例の神輿渡御であった。
今年の神輿渡御には、京都松尾大社のお祭り・松尾祭に神輿を担がれている
櫟谷会(いちたにかい)の皆さんの参加があり、にぎやかな渡御となった。

王歳神社の宮司さんである歴史家の調査によれば、この神輿は、

今から約300年前の寳永(ほうえい)三年丙戌三月二十一日(1707年)、
岡田貞八郎氏の作であるという。(神輿の内部の壁に記載あり)

京都嵐山の『櫟谷(いちたに)神社』の神輿となり、松尾大社の松尾祭で
神幸祭』『還幸祭』に加わり、桂川渡御の六基中の一基であったという。

その後、縁があって約160年前の弘化二年(1845年)に当王歳神社の
神輿になったとのことである。

松尾祭では、現在もなお桂川を渡る渡御があり、お越しいただいた皆さんは、
この松尾祭で、毎年神輿を担いでおられる方々である。

どのような因縁で、お越しいただくことになったのか?。
それはこのホームページが取持つ縁であった。

昨年の10月にこのホームページに掲載した、王歳神社のお祭りの写真が、
櫟谷会の方の目にとまったのが発端で、数回のメールのやり取りの結果、
このたびの訪問となったものである。

この出会いを大切にして、今後共お付き合い願いたいものである。



一番下の写真は、
渡御終了後神殿前で、
櫟谷会の皆さんによる
神輿担ぎの披露。


今年の祭りが新聞に


10月17日
今年の王歳神社秋季大祭の様子が、
この地域の新聞
両丹日日新聞に紹介された。

10月12日の秋季大祭に、
京都松尾大社で神輿を担いでおられる
16名がこられて、
こちらの神輿を担いでもらった。

このいきさつを新聞の記事にされ、
『神輿が縁の交流始まる』の
見出しであった。

この縁を大切にしていきたい。
  3.杏ちゃんの記録

2004年7月記

(写真をクリックしてください。スライドショーになっています)


0歳

杏ちゃんは、名前が杏(あん)、
私の孫(外孫)であるが、
今まで、なんとなく孫という言葉を
避けてきた様な気がする。

孫といえば、当然、じいちゃん、ばあちゃんと
呼ばれる立場になるからである


孫からはともかく、子供や家内から、
じいちゃんと呼ばれるのには、
いささか以上に抵抗がある。

杏ちゃんは、2000年ベビーであるから、
早いもので、もうすぐ
満四才になる。

杏ちゃんの振る舞いを見ていると、
当然のことながら、
私や家内の血統にはないような
パーソナリティが感じられて
興味津々である。

元気に成長する事を祈る!。

2歳
1歳
3歳


2005年7月記


京都に住む孫娘杏ちゃんは、毎日元気に保育園にいっている様子であり、もうすぐ5才になる。

7月16日から18日の三連休に、ママ(私の娘)と一緒に我が家にやってきた。
その成長の速さには驚かされる。

連休をこちらで過ごして、京都へ帰っていった娘から、杏がこんなことを言っているとのメールが届いた。
『どうして、ママはおねぇちゃんって呼ばれんの?。
杏も今度からおねぇちゃんと呼んでくれるように言っといてやー』っと。

娘に対し、我々が『おねえちゃん』と呼んでいるのを聞いての、杏の素朴な疑問であったらしい。
今のところ、杏ちゃんには妹や弟がいないので、はて、どう呼んだらいいのだろうか。


04年8月14日
4才になったばかり
04年9月18日 05年1月2日(正月)
05年1月3日
05年6月12日おねぇちゃん
らしくなっってきた
05年7月17日
もうすぐ5才

  4.電卓開発40周年                       2004年8月記て

SHARPのホームページによれば、電卓が1964年(昭和39年)に開発されて、
今年は
40周年という。
20世紀に発明された身近のもので一番役に立っているのは、電卓のような気がする。
今、我が家にある電卓類を整理してみた。


写真 形名 購入年 メ    モ
HEMMI 1959
(S34)
電卓が登場するまでは、加減計算はソロバン、乗除、指数計算はもっぱらこの計算尺であった。
会社へ入社後もしばらくはお世話になった。
計算尺についてはこちらのホームページに詳しい。
なし SHARP
1968頃
(S43)
入手した電卓の1号機は、1968年頃と思う。
蛍光表示管による緑の表示で、加減乗除のみ。
便利になったものだと感激したものである。
CASIO
fx-5000
1975頃
(S50)
本格関数電卓である。液晶表示、ボタン電池。
仕事で長い間お世話になった。
現在も電池が健在で完動する。
CASIO
AQ-1700
1983
(S58)
加減乗除計算、時計、アラーム付。
ポケット版の携帯用として購入。
現在電池切れ状態。
SHARP
PA-7000
1988
(S63)
カレンダー、スケジュール、電話帳、メモ機能付の電子手帳漢字辞書、英単語辞書が別カードで取り付けられる。
漢字辞書は役にたった。現在も完動。
CE 不明 ハンディなスケルトンタイプ。
海外旅行時のレート換算用に購入。

現在も完動。
Maruman
でか
不明 この機種から太陽電池型。
老眼化に対応して、大型の卓上版として購入。
現在も完動するが、すこし暗いと表示しない。。
aurora
B30
不明 太陽電池型の携帯用として購入。
名詞サイズ。
現在も完動。
CASIO
fx-911v
1993
(H5)
仕事用に太陽電池型関数電卓として、fx-5000から買換え。
今ではほとんど使う事もないが完動する。
SHARP
PA-700
1996
(H8)
電話帳、スケジュール、メモ、世界時計、換算機能付電子手帳。英数字カナが入力できる。
携帯用電話帳として購入。
CE 1999
(H11)
名詞サイズのカード型。
現在、手帳にはさんで携帯している。
携帯用として現在現役。
SHARP
EL-770A
2003
(H15)
大型の卓上用として、買換え。
現在現役。
携帯電話
D251is
2003
(H15)
携帯電話に付属の電卓。
現役であるが、なんとなく使い勝手が悪い。

  5.父の遺稿                       2004年11月記


父が平成6年に80歳で逝って、もう10年になる。

ここに、仏壇の引き出しの中にあったものを、偶然に見つけた一冊の手帳があり、
その中に、『
昭和59年(1984年)2月起稿』と題した、今から20年前に父が書いた一文がある。
これには、父の小学校時代から、支那事変への従軍、そして
我々3人の兄弟の誕生までの記録が記されている。

これは、父が我々子供に残した遺稿(遺稿と言えるほどの立派なものではないが)と
いえるかも知れない。
今、自分史を書くことが流行しているようであるが、これは一つの父の自分史である。

あまり詳しくは聞いた事がなかった従軍の様子や、家庭の状況などが生々しく記載されている。
父の父(私のおじいさん)が若くして死んだ後の苦労や、従軍の様子等の記述が詳しい。

細かい年月や場所などが記述されており、驚くところがある。
丁度、我々兄弟が生まれたところで終わっているので、
いつか、この続きを、私の自分史としてまとめてみたいものだと思っている。

この一文を公表するのにはためらいを感じたが、せっかく父が残した我が家の歴史であるので、
あえて父への供養とも考えてこのホームページに公表することとした。
もし、父を知る人の目に留まれば幸いである。

                     
                        昭和59年2月起稿

    
 苦労苦労の 人生の峠 越して老後の 花の薗

     遠ざかる 壕の年越し しのびつつ 孫と壽ぐ 古希の元旦

     老いたりと 人は云えども 何のその 今日の務めを 力の限り

     人は親切 野山は長凩 楽し住みよい おらが村

     価値観の 変わりゆく世に 追い越され 山の手入れも 老いの楽しみ


 
一月末、一夜の積雪が40cmに始まり、雪降りが続く日々、気温も連日氷点下、解けるひまも無く、上へ上へと降り積もり、70余年の生涯の記憶にも無い豪雪の年となる。
 二月一杯雪の連続、三月のお彼岸を控えても春の気配を感じない。
 何一つ為す事も無く、炉辺のテレビも見飽きして、金釘流の乱筆ながら、以前より気に留めていた人世録、生まれ育ち、色あせた筆写真をめくり返して見たいとペンを握ってみる。
 人世の古希を過ごし、確かなる記録も無く、記事も年月も前後するかも知れない。
 社会的にも家庭的にも特筆して残すような事は何一つ出来ず、徒食して親戚近隣に支えられ老境を迎えてしまった感じである。
 何をしても生死の境を放浪した支那事変の従軍二年間は、心に焼きつく苦難の思い出である。

                        当家八代        實
                              大正2年8月15日生
                               妻    ゆりこ
                              大正6年8月13日生
    誕生当時の家族
                祖父     九兵衛    慶応元年生
                祖母      ゆき
                父       重右エ門  明治20年生
                母       ことみ    明治25年生
                      (細見村字梅原 赤穂唐太郎出)


大正7年 妹 ちとせ 誕生

小学校入学まで

 
小学校就学までは確かなる思い出もないが、母と母の姉に連れられて、三人で城崎温泉に湯治した思い出がある。
 大海原にもまれる小船が見え隠れする風景のみが思い出される。(以降に書いてゆく我人生の縮図とも思える)
 今思うと、母も若かりし頃、健康に優れなかったのかも知れない。
 祖父はこの頃より、関節リューマチを病んで手足の病痛を訴えており、農作業もできず祖母と度々口けんかをしていた様に思う。


大正9年4月 旧細見村立尋常高等小学校に入学

 
全期を通じての学業成績は中の上程度だったかと思っている。
 順位は60名クラス中、15〜20番程度。
 自宅学習の勧告を強いられながらも勉強はしなかった。


大正11年 弟 充 誕生

大正11年11月 祖母死亡

 
半年程闘病生活をしていた。今思うと胃潰瘍が死因ではなかったかと思う。

大正13年 弟 代士丸 誕生

大正13年8月 妹 ちとせ 死亡

 
就学前年の数年7才の夏、家の下の川へ水泳に連れ出し、水魔の犠牲になる。
 哀れなり。


大正15年 弟 正之 誕生

大正15年12月25日 養蚕室を移築

 
母屋の前に建っていた養蚕兼納屋が老朽化し、母屋の日照も悪かったため解体し、東面に移築した。
 手伝いして頂いた親戚と棟梁を囲んでの祝膳の最中に、先帝大正天皇崩御の通達があった。
 年号が昭和に改められる。


昭和3年 弟 昭典 誕生

昭和3年3月 小学校を卒業

 
当時の学制の小学校、尋常科6年、高等科2年を卒業。

小学校時代を省みて

 
大正2年から7年まで続いた第一次世界大戦に、我が国も日英同盟の好みにより参戦した。
 聯合軍の大勝に、経済は南洋の統治権を取得するなど、戦後の好景気の時代となり、畠地山村の当地も国の重点産業とされた養蚕収入によって生計をたてていた。

 国の貿易輸出額の第一位は、生糸と絹織物で、国家経済を賄う再重点産業として発展していた。
 農家経済も向上したりと云えども、地主、自作農に優位にして農地を持たない小作農は収益分の半額を小作料として地主に納めていた。

 このような状況で、子弟の教育に対する認識も低く、中等学校への進学率も10%以下の有様であった。
 家庭面で祖母と妹の死亡があったが、弟達も次々に生まれ成長し父母も健在であり、経済面も先ず安定し、我も船井郡丹波町の京都府立須知農学校の受験にも通り、一応恵まれた年代であったように思っている。

小学校教育の基本方針と当時の国際情勢

 
明治23年発布の教育に関する勅語の順奉を以て基本となし、忠孝を以て国体の精華となす。義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽くと覚悟して、死を賭しても君国に報すべしと教わる。
 富国強兵、国運の盛衰は軍事力に左右されるものなり。徳育を重視し、質素、勤勉を美徳となす。との、国定教科書により国民一律の目標に向かっての徳育と心身の練磨を以て為した。

 子供心にも『成人したら何になるんだ』と尋ねられたら、『僕は兵隊さんだ』の返事が即座に返る憧れの的であった。 
 国内秩序の確立、家長権限や師弟の秩序も守られ、表面平穏に見える国内情勢と思えた。
 しかし、軍部の政治干渉は日とともに激しくなり、国史に汚点を残す二二六事件、五一五事件などが発生し、軍部の意に反する政治家の暗殺事件が発生した。
 軍事大国になる事を警戒する諸外国が、外交的圧力を加えてくる。

 第一次世界大戦後、軍縮を目的として国際連盟なる機関が出来、兵員、艦船の保有比率を協定せしめる。
 米、英各五に対し、日三の比を強要し、貿易面の日貨排斥等と外国の憎まれ者になって行く。 
 国民生活も質素、倹約、貯蓄の掛声と勤勉労働を美徳とする気持ちが、青壮年層の生涯を支配することとなる。
 軍備も量の制限を受ければ、質の向上を以て年中休日無しの猛訓練であった。
 流行語として月々火水木金々、土日は暦より消えた。

 中等学校以上には配属将校を配し、在郷青年には地区在住の予備軍人による軍事教練と、国防観念の養成がなされた。
 市場から追い出しを受けた日貨の販路開拓と生産資源確保を目的に、広い沃野と豊富な資源の埋まる中国を傘下に収めんがために出兵し、満州事変、上海事変等侵略行為を繰り返し、ソ連国との情勢も緊迫していった。
 資料も無く詳記出来ざるも、当時の物価で、金一円程で買えた物は次の通り。
    酒一升、米三升余、福知山行きバス賃往復、子供向け雑誌二ヶ月分、
    農作業日雇い一日賃金。

農学校生活
 
ある程度の選考をパスした者の中に加われども、一学期は難なく非なく、新しい寄宿舎の生活にも順応し過ごしたが、小学校時代の惰性的な勉学意欲にて、落ちこぼれの中に沈んで行った。
 留年点すれすれにて進級し、改めて知育を 重視する中等学校教育の本質を悟り、級友の勉強態度を見て自己の怠惰に気づき、二年生一学期より心気一転して努力し、学期末にはまずまずの処まで追い上げる事ができた。

 時、昭和4年5月頃より父が心臓病に伏せる身となる。
 日曜、休日には、帰宅して泥田に入って家業を手伝い、8月の夏季休暇には雇い人と共に夏蚕飼育に奮闘した。
 父の病も9月頃から急に悪化した。病名は心臓弁膜症とか。

昭和4年10月10日 父死亡 43才
 
父の死亡時は我17才であった。
 以後、家庭の暗黒時代に入る。このときの家族構成は、
     祖父 73才 関節リユーマチにて起伏も不自由
     母   ことみ 39才 健在
     弟   充    8才
         代士丸 6才
         正之   4才
         昭典   2才
 一家の大黒柱の死亡により、農学校も二年生二学期にて中退し、家業の中心たらん事を誓う。
 青年補習学校へ週二日通い、若干でも進んだ農業経営をと、果樹(主として梨)と養鶏を取り入れ、遺産と小作料収入にて何とか生活出来る状態であった。
 

昭和6年1月28日 祖父 九兵衛 死亡

 
永年、関節リュウマチにて起伏も不自由な闘病生活なれど75才を以て一期となる。

昭和7年 弟 昭典 5才の年に疫痢で死亡
 
母の嘆き甚だし。

昭和11年3月5日 結婚
 
橋本信利氏の媒酌を得て、多紀郡草山村(現西紀町)遠方、橋本作太郎長女ゆり子と結婚。
 当日は季節外れの大雪であった。


昭和12年1月 長男誕生 佳和と名をつける。

昭和12年4月23日 長男 佳和 死亡

 
生後100ケ日たらずにて幼児死亡。

昭和12年7月

 
日中関係も日々悪化の一路をたどり、華北軍の夜間演習に挑発されし中国軍の発砲により(日本軍の挑発発砲との説もある)、本格的な戦争状態に突入する。
 日支事変の拡大につれ内地軍の派兵補充として赤紙召集を受け、京都陸軍病院へ入隊する。
 苦労が続いた母への孝養もこれからと、家も一応のまとまりの出来た矢先にて、心は残れども、小節を捨て大義に生きる国民の義務栄挙と区民に送られる。


昭和12年9月〜12月
 
陸軍病院同時召集の新兵約300名を10班に編成される。
 主として看護法、救急法、人体構造、万国赤十字条約、戦時医療体系等について学ぶ。
 農学校初学年の学力不振の悲哀を肝に銘じ、勉学に励んだ結果、好成績にて検閲完了し12月より実務に勤務。
 学科教育の成績に依って実務配置が行われ、結果として自身には極めて不適なところなりしを後日になって悟る。
 年末から戦局の拡大により傷兵が多くなり、大津臨時病院が開設され病理試験室勤務を命ぜられる。

昭和13年2月
 
京都市左京区高野川臨時病院に転ず。
 職務上伝染病菌に自己感染の危険性が高く、また万事繊細な注意力を要する職務にて、野山に鍬鎌を持つこと以外に能無き身には職務に馴染まざるところ、失策もあり機会をみて勤務場所を変わりたく思っていた矢先、外地(中華民国)戦地派遣の志願者募集の会報あり。率先応募す。

昭和13年8月
 
予備教育のため東京都牛込区若松町 陸軍軍医学校防疫研究室に入る。
 同所最高主任 石井四郎軍医大佐
 担当教育主任 江口軍医少佐
 編成部隊名 一七防疫給水部
 部隊長 若杉軍医少佐以下約150名

 これが、戦後悪魔の部隊として指弾の的となった関東軍七三一部隊の支隊なることは露知らず、秘密特殊部隊とのみ教え込まれ、任務、行動、装備等の口外を禁じられる。
 表面は友軍の伝染病の予防全般、罹患の原因となる飲料水の検査、前記七三一部隊にて考案発明による高性能の石井式濾水器による濾水及び部隊給水を任務となす。
 教育期間三ケ月、品川区大井町の民家に分宿し優遇を受ける。

昭和13年11月
 
外地出征の命を受く。
 援蒋香港ルート閉鎖を目的として、香港東岸バイアス湾に上陸。
 人馬の屍をまたいで進軍、広東に入城す。
 夜毎の敵襲、便衣隊の放火等血なまぐさい戦場の初体験なれども、幸い亜熱帯地にて気候の条件に恵まれた冬期であった。
 この頃より、隊の裏任務となる作戦の一環として細菌戦に対応すべく、体制を整え決死隊による病原菌のばらまきを、暗々の内に教えられる訓示を受くる様になる。


昭和14年2月
 ビルマルート壊滅を目的として、空軍基地確保のため海南島に進撃。
 東北部海口、○(以下、字がわからないのは○を表示)山、○東、定安等の攻略戦に転戦。


昭和14年8月

 
同島の要地を一通り平定したれば隊を二分し、半数を駐留半数を再び大陸に引き返し、広東北西約20km南海県佛山市に本部移転に従行す。
 同年10月、広九鉄道(広本−九龍)の要地○○に分遺す。


昭和14年9月
 
母死亡の悲報届く。
 出港時時神戸港で見送ってくれたのが最後の別れにて、二年余の苦労の連続と疲労困憊に病に倒るとの便を手に涙す。

昭和15年4月
 
原隊復員、召集解除。
 荒漠の戦地を後に、船旅一週間母国に近づくにつれ、一入目に染む山紫水明に、嗚呼我れ無事に還れりと感無量。
 親戚、近隣に迎えられたるも母なき後の家庭に入り、秘芫の寶物を失いたる如き心情なり。
 銃後の国内も青壮年は次々召集され、物資生産も鈍り、諸物の不足を感じらる。

昭和16年12月8日
 米英蘭諸国の経済封鎖による援蒋政策打開の外交交渉も決裂し、太平洋戦争に突入。
 真珠湾の奇襲に始まり、比国蘭印ビルマ、太平洋の諸島に日の丸を羽ばたしたれども、戦線拡大につれて補給困難となり、軍事民間共に物資不足は想像を絶する有様となり、落日の蔭さしそめる。
 昭和18年頃より、ビルマインパール戦、ソロモン、ミッドウエイ海戦の不勝により、南太平洋諸島の玉砕による制海制空権も、敵方の手に落ち、連日本土空襲を受く。
 主要都市、焼野原と化してゆく。


昭和18年9月20日 次男誕生 捷久 と名付ける(注:これがサイト管理者K'Chan)
 戦捷長久の一字を用いたり。

昭和19年〜23年
 
戦局悪化し、連日の敵機B29重爆の空襲を受けるに至り、叔父一家の縁故疎開を受け入れ、乏しきを分かち合っての生活をなす

昭和19年7月26日 弟 正之 死亡
 
福知山商業学校を卒業と共に、大阪環状線森之宮駅に就職。
 生活環境の急変と戦中の食料不安等が重複し、胸部疾患を病み帰省、闘病一ケ年にて20才の令を以て死す。
 当時、我招集解除にて帰省せるも、入れ替わりとして、弟2人、充 北支軍、代士丸 台湾守備に従軍し、残った一人の兄弟の死亡に悲涙止まらず。
 家庭内の不幸の連続と社会不安の暗黒の時代なり。


昭和20年8月  終戦 
 広島、長崎に原爆投下され、両市地獄の焦土と化し、ソ連の宣戦布告を受けポツダム宣言を受諾。
 建国以来、外敵の侵入を受けたる事なき大日本帝国も、無条件降伏。
 その後の治安の混乱、生活の窮乏、重税、インフレ、預貯金封鎖と筆舌に盡くし難い日々の暮らしの中に、新生民主日本平和国家としての再建を目指す。
 戦前、戦中、家計を支えた養蚕業も食料増産第一の呼びかけで、桑畑も雑穀、甘藷作に転じ居りたれども、昭和23年頃より経済状態もすこしづつ落ち着きを取り戻した。
 より有利なる換金作物の導入をと葉たばこ栽培を取り入れ、以来30年間家計を支えて過ごす。

昭和23年5月 三男誕生 繁幸 と名付く

昭和25年9月 長女誕生 笑子 と名付く

 
相変わらず家計は苦しい年月の連続なりしも、三子共々心身共健康に年を重ねて成長して行く。

  6.半農半X生活が単行本で紹介された           2005年1月記


私の半農半X生活が技術評論社(松尾憲生著)の
『50歳から準備する人生第2のわくわく生活(ドリームワーク)』という単行本で、
紹介された。

昨年の六月に、このホームページを見られた方から、取材の申し入れがあり
対応した内容が、25人のドリームワーカーの中の一人として紹介されたもので、
タイトルは『ふるさとで知る農業の楽しみ』となってる。

最近
700万人ともいわれる団塊の世代(1947年〜1949年生まれ)が
2007年に大量に定年を迎える事から、2007年問題として
あちこちで議論されている。

毎日新聞では、『大還波−60歳からのマイライフ』という記事が連載され、
人生80年時代の還暦後の新しい生き方を模索している。
正月元旦の紙面には、『60歳からのマイライフ半農半X』という特集であった。

この本も、これら団塊の世代向けに書かれた本で、次のような構成になっている。

第1章 50歳を過ぎたらドリームワークを考えよう。
第2章 なぜドリームワークが必要か。
第3章 ドリームワーク実践者25人。
第4章 25人のドリームワーカーから何を学ぶか。
(この本では、定年後の活動をドリームワークを呼んでいる)

私の記事は、お恥ずかしい限りであるが、他の24人の人達の生き方は、
それぞれにユニークであり、共感させられる。