No.39  2004年11月上旬号 (11月1日発行)     写真はクリックで拡大

父の遺稿


父が平成6年に80歳で逝って、もう10年になる。

ここに、仏壇の引き出しの中にあったものを、偶然に見つけた一冊の手帳があり、
その中に、『
昭和59年(1984年)2月起稿』と題した、今から20年前に父が書いた一文がある。
これには、父の小学校時代から、支那事変への従軍、そして
我々3人の兄弟の誕生までの記録が記されている。

これは、父が我々子供に残した遺稿(遺稿と言えるほどの立派なものではないが)と
いえるかも知れない。
今、自分史を書くことが流行しているようであるが、これは一つの父の自分史である。

あまり詳しくは聞いた事がなかった従軍の様子や、家庭の状況などが生々しく記載されている。
父の父(私のおじいさん)が若くして死んだ後の苦労や、従軍の様子等の記述が詳しい。

細かい年月や場所などが記述されており、驚くところがある。
丁度、我々兄弟が生まれたところで終わっているので、
いつか、この続きを、私の自分史としてまとめてみたいものだと思っている。

この一文を公表するのにはためらいを感じたが、せっかく父が残した我が家の歴史であるので、
あえて父への供養とも考えてこのホームページに公表することとした。
もし、父を知る人の目に留まれば幸いである。

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新・水滸伝(第三巻)


新・水滸伝(三巻)

吉川英治著

講談社


いよいよ、梁山泊には一騎当千の百八人の豪傑どもが、続々と集まりかけてくる。
例によって、第三巻を構成するドラマの章のタイトルを紹介しよう。
このドラマの雰囲気を感じてほしい。

雑魚と怪魚の騒動の事。また開く琵琶亭の美酒のこと。
壁は宋江の筆禍を呼び、飛馬は『神行法』の宙を行くこと。
軍師呉用にも千慮の一矢。探し出す偽筆の名人と印刻師のこと。
一党、江州刑場に大活躍のこと。次いで、白龍廟に仮の勢揃いのこと。
大江の流れは奸人の血祭りを送り、梁山泊は生還の人にわき返ること。
玄女廟の天上一夢に、宋江、下界の使命を宿星の身に悟ること。

李逵も人の子、百丈村のおふくろを思い出すこと。
妖気、草簪の女のこと。怪風、盲母の姿を呑み去ること。
虎退治の男、トラになること。ならびに官馬八頭が紛失する事。
首斬り囃子、街を練る事。並びに、七夕生まれの美女、巧雲のこと。
美僧は糸屋の若旦那上がり。法事は色界曼荼羅のこと。
秘戯の壁絵もなお足らず、色坊主が百夜通いの事。

友情一片の真言も、紅涙一怨の閨語には勝らずして仇なる事。
薊州流行歌のこと。次いで淫婦の白裸、翠屏山を紅葉にすること。
祝氏の三傑『時報ノ鶏』を蚤に食われて大いに怒ること。
窮鳥、梁山泊に入って、果然、ついに泊軍の動きとなる事。
不落の城には振るいとばされ、迷路の間では魂魄燈のなぶりに会うこと。

二刀の女将軍、戦風を薫らして、猥漢の矮虎を生け捕ること。
小張飛の名に柳は撓められ、花の戦士も観念の目をつむる事。
牢番役の鉄叫子の楽和、おばさん飲屋を訪ねてゆく事。
登州大牢破りにつづき。一まき山東落ちの事。
宋江、愁眉をひらき。病尉遅の一味、祝氏の内臓に入りこむ事。

百年の悪財、一日に窮民を賑わし、梁山泊軍、引揚げの事。
宋江、約を守って花嫁花婿を見立て。『別芸題』に女優白秀英が登場のこと。
木戸の外でも猫の干物と女狐とが掴み合いの一ト幕の事。
蓮咲く池は子を呑んで、金枝の門にお傅役も迷ぐれこむこと。
狡獣は人の名園を窺い。山軍は泊を出て懲らしめを狙うこと。

小さな旅 編集後記とWhat's New

長岡天満宮

(写真をクリックでスライドショー)

10月24日、京都長岡京に出向いた機会に、
長岡天満宮に立ち寄った。
長岡京は、菅原道真公が
ご生前にしばしば遊んだ所といわる。

この神社の創立は、
公が大宰府に左遷された時、
この地で、『わが魂長くこの地にとどまるべし』と
名残を惜しまれた縁故によるという。

神社前の八条が池は、寛永15年(1638年)

八条宮智仁親王によって
築造されたという。

池畔には樹齢百数十年のきりしまつつじが
多数植えられており、その見事さは
わが国随一と言われている。

現在の本殿は、昭和16年に
京都の平安神宮の本殿を
移築したものとの事


この時期、七五三やお宮参りの人達が
ちらほらであった。


阪急京都線長岡天神駅から徒歩約10分。


かなり以前に、
森村誠一著『
悪魔の飽食』という
本が発行された。
これは、日本陸軍の七三一細菌部隊の
残虐性を指弾したものであった。

父はこの本を読んで、
自分が入隊していた七三一部隊の
本質を知り、
戦時下の命令とはいえ、
この部隊に参画していたことを
ひどく気にしていたようであった。

父の遺稿も、この本の発行のすぐ後に
書かれたものであり、七三一部隊のことが
かなり詳しく書かれている。

戦後長い間のこの胸のつかえを
発散させたかったのかもしれない。

戦争の残虐性を憎むと共に、
父の冥福を祈りたい。

七三一部隊については、
このホームページに詳しい。


新・水滸伝で梁山泊に集まる百八の星とは
誰であるのか。

このホームページに詳しい。




No.40  2004年11月下旬号 (11月21日発行)     写真はクリックで拡大

小さな旅 −京都の紅葉を訪ねてー


11月16日、京都の紅葉を訪ねて小さな旅をした。
京都北部では丁度紅葉の盛りで、例年になく美くしいようであった。
南部でもこの1〜2週間で紅葉のピークを迎えるため、
これからの京都では、どこへ行っても観光客の人波と、車の渋滞で大変な時期となるみたいだ。

洛北 常照寺 洛北 光悦寺
洛北『しょうざん』の庭園
比叡山延暦寺 根本中堂
大原 三千院


新・水滸伝(第四巻、終巻)


新・水滸伝(四巻)

吉川英治著

講談社


新・水滸伝もいよいよ
終巻である。
梁山泊には百八の魔星がここに揃い、中央の官軍との戦いが始まろうとするところで、
この小説は終わっている。
このとき、吉川英治氏は起居も不自由なほどに衰弱されていたという。
吉川英治氏の
作家生活最後となったこの小説の、
最後の本文三行を引用させていただく。

ここ梁山泊の浅春二タ月ほどもめずらしい。泊中はなんとも毎日なごやかで、
水塞に矢たけびなく、烽火台に狼煙の音もしなかった。しかし、中央から地方へかけて
官軍のうごきは、決して万里春風の山野、そのままではなかった。


例によって、終巻を構成するドラマの章のタイトルを紹介しよう。

官衣の妖人があらわす奇異に、三陣の兵も八裂の憂目に会うこと。
羅真人の仙術、人間たちの業を説くこと。
法力競べの説。及び、李逵を泣かす空井戸のこと。
禁軍の秘密兵団、連環馬陣となること。
さらに注ぐ王軍の新兵器に、泊軍も野に生色を失う事。
屋根裏に躍る‘牧渓猿’と、狩場野で色を失う徐寧のこと。
工廠の槌音は水泊に冴え、不死身の鉄軍も壊滅去ること。
名馬の盗難が機縁となって三山の怪雄どもを一つにすること。
三山十二名、あげて水滸の賽へ投じること。
木乃伊取りが木乃伊となり、勅使の大臣は質に取られること。
喪旗はとりでの春を革め、僧は河北の一傑を語ること。
売卜先生の卦、まんまと玉麒麟を惑わし去ること。
江上に聞く一舟の妖歌「おまえ待ち待ち芦の花」。
浪子燕青、樹上に四川弓を把って、主を奪うこと。
伝単は北京に降り、蒲東一警部は、禁門に見出される事。
人を殺すの兵略は、人を生かすの策には及ばぬこと。
はれもの医者の安先生、往診あって帰りは無い事。
元宵節の千万燈、一時のこの世の修羅を現出すること。
直言の士は風流天子の朝を追われ、山東の野はいよいよ義士を加える事。
百八の名ここに揃い、宋江、酔歌して悲腸を吐くこと。
翠花冠の偽せ役人、玉座の屏風の四文字を切り抜いて持ち去ること。
徽宗皇帝、地下の坑道から廓通いのこと。並びに泰山角力の事。
飛燕の小躯に観衆はわき立ち、李逵の知事服には猫の子も尾を隠す事。

小さな農業 編集後記とWhat's New

草刈


我がささやかな半農生活に必要な労力の
約半分は、雑草との戦いである。
田や畑のまわりや、遊休地は、
年間四回ぐらいの草刈が必要である。
特に草の伸びが著しい夏場の草刈は
重労働である。

今年の夏、写真のような草刈機を購入した。
ゴルフ場の芝刈り機の様なものである。
従来の草刈機に比べて、
格段に楽になった。
少々の斜面も刈れるのがうれしい。

<緒元>
型式:RK505B-L
製造元:(株)アグリップ
販売元:井関農機株式会社
エンジン排気量:48.6CC
最大出力:2.2PS
草刈り幅:500mm
畦上からの斜面刈長さ:1700mm
斜面適用角度:45°


昨年の紅葉は散々であったが、
今年は美しいようである。
今年は夏の極暑、秋の長雨、台風、
洪水、地震と自然環境の変化の
激しい年であった。
それでも季節は確実に巡ってきて、
美しい景色が我々を癒してくれる。


吉川英治著<新・水滸伝>の原典は
十二世紀の初め頃からの、中国の民話や
伝承が、脈絡のある一貫した
一大叙事文として組み立てられた
『中国の水滸伝』であるという。
したがって、原典も一つでなく、
七十回本、百回本、百二十回本などと
長短いろいろあるようである。
吉川水滸伝は、この一番長い百二十回本の
七十四回あたりで終わっているらしい。

新・水滸伝は
首領の宋江を始めとして、
百八人の英雄豪傑、知者、女傑の面々が
梁山泊に結集するところで終わっている。

吉川英治氏がもし
健康であったなら
原典のように、百八星の運命の最後まで、
ドラマ化されていたに違いない。
吉川氏は第一回の手術後十ケ月の間に、
再発、再手術、そして臨終を
迎えられたという。
本当に残念な事である。