特集 No.7  父の遺稿 (ページ1)    (2004年11月2日発行)


父が80歳で逝って、もう10年になる。
ここに、仏壇の引き出しの中で偶然に見つけた一冊の手帳があり、
その中に、父が書いた『昭和59年(1984年)2月起稿』と題した一文がある。

これは父が、我々子供に残した遺稿(遺稿といえる程のものではないが)といえるかもしれない。
公表するのにためらいがあるが、これも父への供養と考えて公表することにする。


 
                     
昭和59年2月起稿


     苦労苦労の 人生の峠 越して老後の 花の薗

     遠ざかる 壕の年越し しのびつつ 孫と壽ぐ 古希の元旦

     老いたりと 人は云えども 何のその 今日の務めを 力の限り

     人は親切 野山は長凩 楽し住みよい おらが村

     価値観の 変わりゆく世に 追い越され 山の手入れも 老いの楽しみ



 
一月末、一夜の積雪が40cmに始まり、雪降りが続く日々、気温も連日氷点下、解けるひまも無く、上へ上へと降り積もり、70余年の生涯の記憶にも無い豪雪の年となる。
 二月一杯雪の連続、三月のお彼岸を控えても春の気配を感じない。
 何一つ為す事も無く、炉辺のテレビも見飽きして、金釘流の乱筆ながら、以前より気に留めていた人世録、生まれ育ち、色あせた筆写真をめくり返して見たいとペンを握ってみる。
 人世の古希を過ごし、確かなる記録も無く、記事も年月も前後するかも知れない。
 社会的にも家庭的にも特筆して残すような事は何一つ出来ず、徒食して親戚近隣に支えられ老境を迎えてしまった感じである。
 何をしても生死の境を放浪した支那事変の従軍二年間は、心に焼きつく苦難の思い出である。

                        当家八代        實
                              
大正2年8月15日生
                               妻    ゆりこ
                              大正6年8月13日生
    誕生当時の家族
                祖父     九兵衛    慶応元年生
                祖母      ゆき
                父       重右門  明治20年生
                母       ことみ    明治25年生
                      (細見村字梅原 赤穂唐太郎出)


大正7年 妹 ちとせ 誕生

小学校入学まで

 
小学校就学までは確かなる思い出もないが、母と母の姉に連れられて、三人で城崎温泉に湯治した思い出がある。
 大海原にもまれる小船が見え隠れする風景のみが思い出される。(以降に書いてゆく我人生の縮図とも思える)
 今思うと、母も若かりし頃、健康に優れなかったのかも知れない。
 祖父はこの頃より、関節リューマチを病んで手足の病痛を訴えており、農作業もできず祖母と度々口けんかをしていた様に思う。


大正9年4月 旧細見村立尋常高等小学校に入学

 
全期を通じての学業成績は中の上程度だったかと思っている。
 順位は60名クラス中、15〜20番程度。
 自宅学習の勧告を強いられながらも勉強はしなかった。

大正11年 弟 充 誕生

大正11年11月 祖母死亡

 半年程闘病生活をしていた。今思うと胃潰瘍が死因ではなかったかと思う。

大正13年 弟 代士丸 誕生

大正13年8月 妹 ちとせ 死亡

 
就学前年の数年7才の夏、家の下の川へ水泳に連れ出し、水魔の犠牲になる。
 哀れなり。

大正15年 弟 正之 誕生

大正15年12月25日 養蚕室を移築

 
母屋の前に建っていた養蚕兼納屋が老朽化し、母屋の日照も悪かったため解体し、東面に移築した。
 手伝いして頂いた親戚と棟梁を囲んでの祝膳の最中に、先帝大正天皇崩御の通達があった。
 年号が昭和に改められる。

昭和3年 弟 昭典 誕生

昭和3年3月 小学校を卒業

 当時の学制の小学校、尋常科6年、高等科2年を卒業。


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