父が80歳で逝って、もう10年になる。
ここに、仏壇の引き出しの中で偶然に見つけた一冊の手帳があり、
その中に、父が書いた『昭和59年(1984年)2月起稿』と題した一文がある。
これは父が、我々子供に残した遺稿(遺稿といえる程のものではないが)といえるかもしれない。
公表するのにためらいがあるが、これも父への供養と考えて公表することにする。
昭和59年2月起稿 苦労苦労の 人生の峠 越して老後の 花の薗 遠ざかる 壕の年越し しのびつつ 孫と壽ぐ 古希の元旦 老いたりと 人は云えども 何のその 今日の務めを 力の限り 人は親切 野山は長凩 楽し住みよい おらが村 価値観の 変わりゆく世に 追い越され 山の手入れも 老いの楽しみ 一月末、一夜の積雪が40cmに始まり、雪降りが続く日々、気温も連日氷点下、解けるひまも無く、上へ上へと降り積もり、70余年の生涯の記憶にも無い豪雪の年となる。 二月一杯雪の連続、三月のお彼岸を控えても春の気配を感じない。 何一つ為す事も無く、炉辺のテレビも見飽きして、金釘流の乱筆ながら、以前より気に留めていた人世録、生まれ育ち、色あせた筆写真をめくり返して見たいとペンを握ってみる。 人世の古希を過ごし、確かなる記録も無く、記事も年月も前後するかも知れない。 社会的にも家庭的にも特筆して残すような事は何一つ出来ず、徒食して親戚近隣に支えられ老境を迎えてしまった感じである。 何をしても生死の境を放浪した支那事変の従軍二年間は、心に焼きつく苦難の思い出である。 当家八代 實 大正2年8月15日生 妻 ゆりこ 大正6年8月13日生 誕生当時の家族 祖父 九兵衛 慶応元年生 祖母 ゆき 父 重右エ門 明治20年生 母 ことみ 明治25年生 (細見村字梅原 赤穂唐太郎出) 大正7年 妹 ちとせ 誕生 小学校入学まで 小学校就学までは確かなる思い出もないが、母と母の姉に連れられて、三人で城崎温泉に湯治した思い出がある。 大海原にもまれる小船が見え隠れする風景のみが思い出される。(以降に書いてゆく我人生の縮図とも思える) 今思うと、母も若かりし頃、健康に優れなかったのかも知れない。 祖父はこの頃より、関節リューマチを病んで手足の病痛を訴えており、農作業もできず祖母と度々口けんかをしていた様に思う。 大正9年4月 旧細見村立尋常高等小学校に入学 全期を通じての学業成績は中の上程度だったかと思っている。 順位は60名クラス中、15〜20番程度。 自宅学習の勧告を強いられながらも勉強はしなかった。 大正11年 弟 充 誕生 大正11年11月 祖母死亡 半年程闘病生活をしていた。今思うと胃潰瘍が死因ではなかったかと思う。 大正13年 弟 代士丸 誕生 大正13年8月 妹 ちとせ 死亡 就学前年の数年7才の夏、家の下の川へ水泳に連れ出し、水魔の犠牲になる。 哀れなり。 大正15年 弟 正之 誕生 大正15年12月25日 養蚕室を移築 母屋の前に建っていた養蚕兼納屋が老朽化し、母屋の日照も悪かったため解体し、東面に移築した。 手伝いして頂いた親戚と棟梁を囲んでの祝膳の最中に、先帝大正天皇崩御の通達があった。 年号が昭和に改められる。 昭和3年 弟 昭典 誕生 昭和3年3月 小学校を卒業 当時の学制の小学校、尋常科6年、高等科2年を卒業。 |