特集 No.7  父の遺稿(ページ2)    (2004年11月2日発行)



小学校時代を省みて
 大正2年から7年まで続いた第一次世界大戦に、我が国も日英同盟の好みにより参戦した。
 聯合軍の大勝に、経済は南洋の統治権を取得するなど、戦後の好景気の時代となり、畠地山村の当地も国の重点産業とされた養蚕収入によって生計をたてていた。

 国の貿易輸出額の第一位は、生糸と絹織物で、国家経済を賄う再重点産業として発展していた。
 農家経済も向上したりと云えども、地主、自作農に優位にして農地を持たない小作農は収益分の半額を小作料として地主に納めていた。

 このような状況で、子弟の教育に対する認識も低く、中等学校への進学率も10%以下の有様であった。
 家庭面で祖母と妹の死亡があったが、弟達も次々に生まれ成長し父母も健在であり、経済面も先ず安定し、我も船井郡丹波町の京都府立須知農学校の受験にも通り、一応恵まれた年代であったように思っている。


小学校教育の基本方針と当時の国際情勢

 
明治23年発布の教育に関する勅語の順奉を以て基本となし、忠孝を以て国体の精華となす。義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽くと覚悟して、死を賭しても君国に報すべしと教わる。
 富国強兵、国運の盛衰は軍事力に左右されるものなり。徳育を重視し、質素、勤勉を美徳となす。との、国定教科書により国民一律の目標に向かっての徳育と心身の練磨を以て為した。

 子供心にも『成人したら何になるんだ』と尋ねられたら、『僕は兵隊さんだ』の返事が即座に返る憧れの的であった。 
 国内秩序の確立、家長権限や師弟の秩序も守られ、表面平穏に見える国内情勢と思えた。
 しかし、軍部の政治干渉は日とともに激しくなり、国史に汚点を残す二二六事件、五一五事件などが発生し、軍部の意に反する政治家の暗殺事件が発生した。
 軍事大国になる事を警戒する諸外国が、外交的圧力を加えてくる。

 第一次世界大戦後、軍縮を目的として国際連盟なる機関が出来、兵員、艦船の保有比率を協定せしめる。
 米、英各五に対し、日三の比を強要し、貿易面の日貨排斥等と外国の憎まれ者になって行く。 
 国民生活も質素、倹約、貯蓄の掛声と勤勉労働を美徳とする気持ちが、青壮年層の生涯を支配することとなる。
 軍備も量の制限を受ければ、質の向上を以て年中休日無しの猛訓練であった。
 流行語として月々火水木金々、土日は暦より消えた。

 中等学校以上には配属将校を配し、在郷青年には地区在住の予備軍人による軍事教練と、国防観念の養成がなされた。
 市場から追い出しを受けた日貨の販路開拓と生産資源確保を目的に、広い沃野と豊富な資源の埋まる中国を傘下に収めんがために出兵し、満州事変、上海事変等侵略行為を繰り返し、ソ連国との情勢も緊迫していった。
 資料も無く詳記出来ざるも、当時の物価で、金一円程で買えた物は次の通り。
    酒一升、米三升余、福知山行きバス賃往復、子供向け雑誌二ヶ月分、
    農作業日雇い一日賃金。

農学校生活
 
ある程度の選考をパスした者の中に加われども、一学期は難なく非なく、新しい寄宿舎の生活にも順応し過ごしたが、小学校時代の惰性的な勉学意欲にて、落ちこぼれの中に沈んで行った。
 留年点すれすれにて進級し、改めて知育を 重視する中等学校教育の本質を悟り、級友の勉強態度を見て自己の怠惰に気づき、二年生一学期より心気一転して努力し、学期末にはまずまずの処まで追い上げる事ができた。

 時、昭和4年5月頃より父が心臓病に伏せる身となる。
 日曜、休日には、帰宅して泥田に入って家業を手伝い、8月の夏季休暇には雇い人と共に夏蚕飼育に奮闘した。
 父の病も9月頃から急に悪化した。病名は心臓弁膜症とか。

昭和4年10月10日 父死亡 43才
 
父の死亡時は我17才であった。
 以後、家庭の暗黒時代に入る。このときの家族構成は、
     祖父 73才 関節リユーマチにて起伏も不自由
     母   ことみ 39才 健在
     弟   充    8才
         代士丸 6才
         正之   4才
         昭典   2才
 一家の大黒柱の死亡により、農学校も二年生二学期にて中退し、家業の中心たらん事を誓う。
 青年補習学校へ週二日通い、若干でも進んだ農業経営をと、果樹(主として梨)と養鶏を取り入れ、遺産と小作料収入にて何とか生活出来る状態であった。
 

昭和6年1月28日 祖父 九兵衛 死亡

 永年、関節リュウマチにて起伏も不自由な闘病生活なれど75才を以て一期となる。

昭和7年 弟 昭典 5才の年に疫痢で死亡
 
母の嘆き甚だし。

昭和11年3月5日 結婚
 
橋本信利氏の媒酌を得て、多紀郡草山村(現西紀町)遠方、橋本作太郎長女ゆり子と結婚。
 当日は季節外れの大雪であった。

昭和12年1月 長男誕生 佳和と名をつける。

昭和12年4月23日 長男 佳和 死亡

 
生後100ケ日たらずにて幼児死亡。

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