昭和12年7月 日中関係も日々悪化の一路をたどり、華北軍の夜間演習に挑発されし中国軍の発砲により(日本軍の挑発発砲との説もある)、本格的な戦争状態に突入する。 日支事変の拡大につれ内地軍の派兵補充として赤紙召集を受け、京都陸軍病院へ入隊する。 苦労が続いた母への孝養もこれからと、家も一応のまとまりの出来た矢先にて、心は残れども、小節を捨て大義に生きる国民の義務栄挙と区民に送られる。 昭和12年9月〜12月 陸軍病院同時召集の新兵約300名を10班に編成される。 主として看護法、救急法、人体構造、万国赤十字条約、戦時医療体系等について学ぶ。 農学校初学年の学力不振の悲哀を肝に銘じ、勉学に励んだ結果、好成績にて検閲完了し12月より実務に勤務。 学科教育の成績に依って実務配置が行われ、結果として自身には極めて不適なところなりしを後日になって悟る。 年末から戦局の拡大により傷兵が多くなり、大津臨時病院が開設され病理試験室勤務を命ぜられる。 昭和13年2月 京都市左京区高野川臨時病院に転ず。 職務上伝染病菌に自己感染の危険性が高く、また万事繊細な注意力を要する職務にて、野山に鍬鎌を持つこと以外に能無き身には職務に馴染まざるところ、失策もあり機会をみて勤務場所を変わりたく思っていた矢先、外地(中華民国)戦地派遣の志願者募集の会報あり。率先応募す。 昭和13年8月 予備教育のため東京都牛込区若松町 陸軍軍医学校防疫研究室に入る。 同所最高主任 石井四郎軍医大佐 担当教育主任 江口軍医少佐 編成部隊名 一七防疫給水部 部隊長 若杉軍医少佐以下約150名 これが、戦後悪魔の部隊として指弾の的となった関東軍七三一部隊の支隊なることは露知らず、秘密特殊部隊とのみ教え込まれ、任務、行動、装備等の口外を禁じられる。 表面は友軍の伝染病の予防全般、罹患の原因となる飲料水の検査、前記七三一部隊にて考案発明による高性能の石井式濾水器による濾水及び部隊給水を任務となす。 教育期間三ケ月、品川区大井町の民家に分宿し優遇を受ける。 昭和13年11月 外地出征の命を受く。 援蒋香港ルート閉鎖を目的として、香港東岸バイアス湾に上陸。 人馬の屍をまたいで進軍、広東に入城す。 夜毎の敵襲、便衣隊の放火等血なまぐさい戦場の初体験なれども、幸い亜熱帯地にて気候の条件に恵まれた冬期であった。 この頃より、隊の裏任務となる作戦の一環として細菌戦に対応すべく、体制を整え決死隊による病原菌のばらまきを、暗々の内に教えられる訓示を受くる様になる。 昭和14年2月 ビルマルート壊滅を目的として、空軍基地確保のため海南島に進撃。 東北部海口、○(以下、字がわからないのは○を表示)山、○東、定安等の攻略戦に転戦。 昭和14年8月 同島の要地を一通り平定したれば隊を二分し、半数を駐留半数を再び大陸に引き返し、広東北西約20km南海県佛山市に本部移転に従行す。 同年10月、広九鉄道(広本−九龍)の要地○○に分遺す。 昭和14年9月 母死亡の悲報届く。 出港時時神戸港で見送ってくれたのが最後の別れにて、二年余の苦労の連続と疲労困憊に病に倒るとの便を手に涙す。 昭和15年4月 原隊復員、召集解除。 荒漠の戦地を後に、船旅一週間母国に近づくにつれ、一入目に染む山紫水明に、嗚呼我れ無事に還れりと感無量。 親戚、近隣に迎えられたるも母なき後の家庭に入り、秘芫の寶物を失いたる如き心情なり。 銃後の国内も青壮年は次々召集され、物資生産も鈍り、諸物の不足を感じらる。 昭和16年12月8日 米英蘭諸国の経済封鎖による援蒋政策打開の外交交渉も決裂し、太平洋戦争に突入。 真珠湾の奇襲に始まり、比国蘭印ビルマ、太平洋の諸島に日の丸を羽ばたしたれども、戦線拡大につれて補給困難となり、軍事民間共に物資不足は想像を絶する有様となり、落日の蔭さしそめる。 昭和18年頃より、ビルマインパール戦、ソロモン、ミッドウエイ海戦の不勝により、南太平洋諸島の玉砕による制海制空権も、敵方の手に落ち、連日本土空襲を受く。 主要都市、焼野原と化してゆく。 昭和18年9月20日 次男誕生 捷久 と名付ける(注:これがサイト管理者K'Chan) 戦捷長久の一字を用いたり。 昭和19年〜23年 戦局悪化し、連日の敵機B29重爆の空襲を受けるに至り、叔父一家の縁故疎開を受け入れ、乏しきを分かち合っての生活をなす。 昭和19年7月26日 弟 正之 死亡 福知山商業学校を卒業と共に、大阪環状線森之宮駅に就職。 生活環境の急変と戦中の食料不安等が重複し、胸部疾患を病み帰省、闘病一ケ年にて20才の令を以て死す。 当時、我招集解除にて帰省せるも、入れ替わりとして、弟2人、充 北支軍、代士丸 台湾守備に従軍し、残った一人の兄弟の死亡に悲涙止まらず。 家庭内の不幸の連続と社会不安の暗黒の時代なり。 昭和20年8月 終戦 広島、長崎に原爆投下され、両市地獄の焦土と化し、ソ連の宣戦布告を受けポツダム宣言を受諾。 建国以来、外敵の侵入を受けたる事なき大日本帝国も、無条件降伏。 その後の治安の混乱、生活の窮乏、重税、インフレ、預貯金封鎖と筆舌に盡くし難い日々の暮らしの中に、新生民主日本平和国家としての再建を目指す。 戦前、戦中、家計を支えた養蚕業も食料増産第一の呼びかけで、桑畑も雑穀、甘藷作に転じ居りたれども、昭和23年頃より経済状態もすこしづつ落ち着きを取り戻した。 より有利なる換金作物の導入をと葉たばこ栽培を取り入れ、以来30年間家計を支えて過ごす。 昭和23年5月 三男誕生 繁幸 と名付く 昭和25年9月 長女誕生 笑子 と名付く 相変わらず家計は苦しい年月の連続なりしも、三子共々心身共健康に年を重ねて成長して行く。 −完了− |